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擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

「表現の自由」の終焉?

表現の自由」=「強者だけの自由」?

 フランスでの新聞社襲撃に端を発する一連のテロ事件。「表現の自由」を脅かす深刻な事態であることは明らかであり、襲撃犯が厳しく罪に問われるべきことは言うまでもない。

 その一方で、日本語でのツイートを見ていると「あの新聞社の風刺は酷すぎる」という声は少なくない。また、ツイッター検索で“satire hate speech”で検索をかけると多くのツイートがヒットするのは、英語圏でも風刺とヘイトスピーチの違いについて疑問を持つひとがいるのだろう。

 いずれにせよ、「表現の自由」という原理は、とりわけマスメディアのそれが関係する場合、もはやそれほどの訴求力を持たないのではないだろうか。言うまでもなく、表現に携わる人びとにとって自由はきわめて重要であり、それを維持するための努力は常に求められる。しかし、「言論の自由」や「表現の自由」が「強者だけの自由」でしかないという主張もまた存在する(かなり以前にどこかで読んだのだが、残念なことにそれがどこだったのか思い出せない)。つまり、マスメディアというのは強者にほかならず、それが主張する自由というのは強者のための自由でしかない、ということだ。

 実際、政治家や官僚など、政治に関わるさまざまな人びとに意見を聞くと、政治に影響力を持っている存在としてもっともよく挙げられるのがマスメディアなのだという(蒲島郁夫ほか『メディアと政治』有斐閣)。政策の細部にまでマスメディアが影響を及ぼすことは稀だが、内閣支持率をマスメディア報道が左右するケースなどは確かにある。

 しかし、それほどまでに大きな力を持つと認識されているにもかかわらず、マスメディアが有するとされるその権力には正統性がない(まわりくどい書き方になっていて申し訳ない)。

 民主主義のもとでは選挙という有権者の洗礼を政治家は受けている。他方、マスメディアには市場の淘汰があるぐらいで有権者から何かを託されたわけではない。放送メディアの場合、放送免許の壁に守られて市場の淘汰からすらも守られていると言えるかもしれない。

 にもかかわらず、マスメディアはそれが攻撃する対象に社会的制裁を与える力を持っている。この観点からすれば、政治家とマスメディアとが対立したばあい、前者を弱者として擁護する一方、後者を権力として批判する動きが出てきても不思議ではない。

 もちろん、政治権力による言論弾圧を重視する従来の見方からすれば、こうした発想は倒錯しているとしか言いようがないだろう。マスメディアの歴史は言わば政治権力による弾圧に対抗する歴史なのであり、戦いのなかで「表現の自由」は勝ち取られてきたのだから(小糸忠吾『新聞の歴史 権力とのたたかい』新潮社など)。

「人民 vs 権力者」というフィクションの終焉

 だが、時代は変わる。その変化のなかで、弱者としてのマスメディアが強者としての宗教権力や政治権力と対立するという図式は説得力を失ってきた。だからこそマスメディアの「表現の自由」に対する支持も失われてきたのではないだろうか。

 その変化をもたらした一つの要因は、「人民 vs 権力者」というフィクションを維持できなくなってきたことだろう。

 ベネディクト・アンダーソンが『想像の共同体』で論じているように、マスメディアはネーション(国民共同体)の出現と密接に結びついていたと言われる。人びとはマスメディアに接することで、見たことも話したこともない「同胞」の存在を認識するようになる。たとえば関東圏からほどんど出たことのない人が、行ったこともない九州で暮らしている人たちを「自分と同じ日本人」として感じるのは、マスメディアが九州を含む日本列島各地で起きる出来事を「日本の出来事」として報道するからだということになる。

 マスメディアはこのように「想像の共同体」としてのネーションを形成するうえで重要な役割を果たしてきた。だからこそ、一枚岩な存在としての人民(国民)が権力者に対峙するという構図のもと、人民を代弁する声として自己を位置づけやすかったと言える。

 しかし、一枚岩の人民というのはどこまでいってもフィクションでしかない。人民のなかに様々な対立があることは言うまでもないし、ネーションの枠組みには回収されないエスニック・マイノリティも存在する。大規模な移民が行われているばあい、人民のなかの多様性は大きくなるばかりだ。

 そして、一枚岩としての人民というフィクションに決定的な打撃を与えたのが、言うまでもなくネットの登場だろう。それまでは発言の機会を持たなかった人びとがネットで声を発するようになったことで人民内部の亀裂はさらに見えやすくなる。

 しかも、有名人や芸能人がネットを使って情報発信を行い、自分自身に関する報道を訂正するような場合、権力としてのマスメディアがいかに情報伝達をねじ曲げてきたのかがこれまで以上に見えやすくなる。

 そうした状況のなかでは、「人民 vs 権力者」という従来の構図のもと、前者を代弁しようとするマスメディアの「表現の自由」は訴求力を失う。それは「一部の人民にとっての自由」であり「その他の人民にとっての抑圧」でしかないと見なされてしまうからだ。

表現の自由」と対話

 とはいえ、それでも「表現の自由」が重要な原理であることに疑いはない。マスメディアの「表現の自由」だけが制限されて、一般の人びとの「表現の自由」は保護されるという状態はたぶん存在しない。両者は一蓮托生だ。

 求められるのは、マスメディアが振り回す「表現の自由」が他者に与えるダメージに対してより自覚的になることだろう。もちろん、たとえ多くの人びとを不快にさせるとしても、マスメディアには情報を発信することが求められる場合がある。しかし、そこに居直って良いわけではなく、人を不快にさせる表現(たとえば信仰の根幹に関わるもの)を本当に発信すべきかどうか、それをあえて発信しないことで「表現の自由」がどれだけ脅かされるのかを、きちんと対話したうえで考えていく必要がある。

 さもなければ、「表現の自由」は「強者だけの自由」として、その価値を喪失していくのではないだろうか。