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擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

ポジティブ・フィードバックの誘惑

「表現の自由」はなぜ必要か

 昔、ぼくがまだ大学院生だったころ。大学のゼミで「表現の自由」はなぜ必要なのかを議論したことがあった。

 ぼくは「表現の自由」や「言論の自由」は基本的人権の一部であり、それは不可侵だと主張した。しかし、たとえば戦争などの緊急事態にあるとき、国家はどこまで人権を保証することができるだろうか?戦争が始まってしまえば勝利こそが最優先課題であり、とにかく国民の一致団結が不可欠である。そうした状況下では国民の士気を損なうような言論は制限されてしかるべきではないか?そのような主張にぼくはうまく応えることができなかったように思う。

情報システムとしての国家

 この問題について、ぼくがこれまでで最も強い説得力を感じたのが、カール・ドイッチュが『ナショナリズムと社会的コミュニケーション』で展開している議論だ。ちょっと堅苦しい言葉が並ぶけれども、ここで言っていることは難しくはないと思う。

 ドイッチュは、国家を一つの情報システムと考える。国家は自己の内部や外部から様々な情報を集めてきて処理し、その処理結果に基づいて行動を決定、実行する。そして、その行動がどのような結果を生じさせたのかについて情報を集め、それを次の行動に活かす。

 (追記2013/12/5)車を運転していて、目の前に歩行者がいるのを発見したら、アクセルから足を離してブレーキを踏む。車のスピートが十分に落ちたことが確認したのち、歩行者が無事に前を横切るのを確認したら、再びアクセルを踏む。それと同じだ。

 このような「行動→行動の結果についての情報→次の行動」という流れをドイッチュはフィードバックと呼ぶ。

 ドイッチュはさらに、このフィードバックにはポジティブなものとネガティブなものがあると論じる。ポジティブ・フィードバックは、前回の行動は正しかったとし、次も同じ行動を取るように促す。他方で、ネガティブ・フィードバックは前回の行動には良くないところがあったとして、次回は異なる行動を取るように促すのだという。

 言うまでもなく、国家が適切に機能するためには、ポジティブ・フィードバックとネガティブ・フィードバックの両方が必要になる。ポジティブ・フィードバックが存在しなければ国家はつねに迷走することになるし、ネガティブ・フィードバックが存在しなければ国家は軌道修正ができなくなる。

 (追記 2013/11/18)加えて、ネガティブ・フィードバックの重要な役割には、国家自体の「目的変更」が含まれる。たとえば、戦争での勝利を目的として国家が動いていたとしても、勝ち目がないことが判明した時点で、「勝利」から「和平」へと目的を切り替えるという役割だ。これが働かなければ、破滅的な状況に至るまで勝ち目のない戦争を継続するしかなくなってしまう。

ネガティブ・フィードバックとしての表現の自由

 表現の自由によって保証されるべき、国家の行動を批判する言論は、ネガティブ・フィードバックにあたる。これまでの行動を批判し、その修正を促すからだ。ところが、国家はこうしたネガティブ・フィードバックを抑圧する傾向がある。ネガティブ・フィードバックは国家の権威を脅かし、意志決定にあたる人々の地位を危うくしかねないからだ。

 そこで、国家の機密を侵害したという理由や、国家が一致団結すべきときにその方針を批判するとはケシカラン等の理由によって、ネガティブ・フィードバックに該当する情報を抑えつけようとする動きが生じることになる。国家はポジティブ・フィードバックの誘惑に屈しやすい性質を有しているのだ。

(追記2013/12/5)実際、政権交代の直後でもない限り、国家は自己の政策の正当化を好む傾向にある。そのために、本来であればネガティブ・フィードバックとして解釈すべき情報まで、ポジティブ・フィードバックのために曲解し、利用する可能性がある。あるいは、過去に費やされたコストを回収しなくてはならないという名目で、ネガティブ・フィードバックが拒否されるケースもありうる(「過去の英霊に申し訳ない」等)。

 ドイッチュによれば、このようにポジティブ・フィードバックのみを称揚するさいに用いられる言葉が「意志」なのだという。揺るぎのない意志は批判に屈しない。ナチス・ドイツではこうして「民族の意志」が強調され、批判的な言説は弾圧の対象となった。(追記2013/12/5)批判に屈しない「決められる政治」もまた意志の強さを強調する姿勢と言えるかもしれない。

 だが、ポジティブ・フィードバックだけで動く国家は、ブレーキの効かない車と同じだ。修正情報はシステムから閉めだされ、これまでの目的や方針を修正することが不可能になる。ネガティブ・フィードバックを効かせようとする者は軟弱者や日和見主義者と見なされ、容赦なく排除されていく。結果、先に述べたように国家は破滅に至るまで歩みを止めることができない。

(追記2013/12/5)とりわけ、既存の政策の量的規模や手段を変更しただけでは問題が解決できないときには、修正情報の必要性は極大化する。言わば、政策のパラダイム転換が必要になるわけだ。ところが、修正情報を適切に処理できる体制を欠くところでは、パラダイム転換は不可能であり、有効性を完全に喪失した政策への固執だけが残ることになる。そのようなパラダイム転換に必要なのは、国家内部での閉ざされた空間での議論ではなく、メディアや有識者なども巻き込んだ公共的な議論なのである。

 したがって、表現の自由や言論の自由は、それが基本的人権だからという理由のみならず、国家が健全に機能するために不可欠であるがゆえに尊重されねばならない。それらの原理によって可能となるネガティブ・フィードバックは、国家が自らのあり方を反省し、より良い方向に軌道修正していくために不可欠なのだ。

ネガティブ・フィードバックを回復できるか

 もちろん、実際にはネガティブ・フィードバックを効かせることはしばしば困難になる。戦争やテロが発生したさいには、どんな国家であれ社会の同調圧力が増し、国家の方針に異を唱えることは難しくなる。だが、そこで重要なのは、同調圧力が増したあとで、その圧力を徐々に押し戻していくことができるか否かだ。ポジティブ・フィードバックばかりになってしまった状況を改め、ネガティブ・フィードバックの余地を増やしていくことができるかどうかに、その国家の力量はかかっている。

 それを押し戻すことができなければ、タブーばかりが増殖し、物事をはっきりと言うことができない国家が生まれる。ドイッチュによれば、ポジティブ・フィードバックしか存在しない国家は、意思決定に妨害が存在しないために表面的には効率的になる。しかし、柔軟性が欠如しているためにその背後では膨大な非効率が生まれるのだという。

 国民の「知る権利」を制限したいというのは、国家の方針に異論が出る余地を抑制したいということでもある。そこは国家の専有事項なのだから、口を挟むなというわけだ。つまりはポジティブ・フィードバックだけで動ける余地を増やしたいとも解釈できるわけで、そこには大きな危険性も付きまとうことは認識しておくべきだろう。