擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

モラル・パニック批判の「危うさ」(1)

 この過疎ブログにしては「『若者バッシング批判』の陥穽」にはわりと多くのアクセスが集まり、批判的なコメントもついた。せっかくの機会なので、前のテーマからはかなりズレるのだが、モラル・パニック批判についてもう少し書いてみたい。といっても、以前に書いた論文の一部をかいつまんで書くだけの話なのだが。

 さて、本題。

 以前、学部生向けの演習で浜井浩一芹沢一也(2006)『犯罪不安社会』(光文社新書)を輪読していたときのことだ。

 この本は、治安悪化を叫ぶマスメディアの報道とは異なり、日本の治安は悪化していないことを統計的なデータをもとに解説するところから始まる。そこから、日本における犯罪不安の高まりを「モラル・パニック」に端を発して、社会問題化したものとして位置づけるとともに、犯罪にまつわる言説の変遷、地域ぐるみで進行する治安対策の問題点について簡潔に論じている。そして、労働市場からはじき出された社会的弱者にとって刑務所こそが「社会福祉の最後の砦」として機能している現状が告発されている。

 そのとき、ある受講者から、この本で論じられているような事態は「結果オーライ」なのではないかとの発言があった。つまり、たとえ治安悪化を訴える言説が誤りであったとしても、それによって地域コミュニティが活性化し、結果として犯罪がより減少するのであれば問題ないのではないか、というのだ。加えて、福祉の最後の砦として刑務所が機能している現状についても、「それもあり」なのではないかという発言もあった。

 このコメントに対して、ぼくは相互監視の強化によって息苦しい社会が生まれてしまう危険性などを指摘したものの、この受講者が納得しているようには思われなかった。さらに、この受講者のコメントに他の受講者も少なからず賛同しているようだった。

 窮したぼくは、「もし君が事故か何かで労働市場からはじき出されるような立場になったらどうする?」、「働く場所がなくて、社会保障も受けられないからという理由で、刑務所に入れられたとしても納得できる?」と聞いてみた。受講生は答えに困っているようだった。彼らはこの本を無意識的に「排除する側」「マジョリティの側」の視点で読んでいた。だからこそ、自分が「排除される側」にまわるという事態を想定していないのである。

 しかし、この論法はやはり良くなかった。誰に聞いたわけでもない「当事者の気持ち」という最強のカードを引っ張りだすことで、相手の主張を封じ込めているだけに過ぎないからだ。想像力を喚起してもらうことは大切だとはいえ、以前のエントリでも書いたように、当事者の気持ちを勝手に代弁して、相手の言うことを封じ込めようとする論法は筋が悪い。

 話を戻すと、この出来事を通じてぼくが痛感したのは、何かに対する不安を啓蒙戦略によって突破することの限界だった。犯罪であれ学力低下であれ放射能であれ、何かに怯える人たちの声を「モラル・パニック」や「統計的に根拠がない」や「ゼロリスク幻想」といった言葉で切り捨てたところで大きな前進は望めないのではないか。

 たとえ犯罪が増えていないとしても、犯罪が存在する限りセキュリティを拡充させていくことは決して無駄ではないという見解に対し、啓蒙戦略では有効な反論を行うことができない。犯罪に対する「適度な」対応を客観的な基準に基づいて決定することは不可能に近いからである(費用便益分析を使えば可能かもしれないが、そもそも不安なんてのは数値化できないからこそ困ったものなのだと思う)。極端なことを言えば、たとえ年に1件でも犯罪が発生するのであれば、徹底した犯罪対策を行うことが必要だという立場も考えられる。

 そこで、そもそもモラル・パニックとは何か、その根源にあるものは何かを考えてみようと思い、研究を始めたわけだ。そこで気づいたのは、モラル・パニックという概念は非常に危ういということだ。研究者によっては、この概念そのものを放棄したほうが良いという立場の人もいる。ただ、ぼくはモラル・パニック分析には面白い点も多々あると思っているので、それをどうやれば救い出せるのかに苦心することになった。

 それでは、モラル・パニックという概念にはどんな「危うさ」があるのだろうか。

 と、ここまで書いたところですでに結構な長さになってしまったので、続きは次回(http://brighthelmer.hatenablog.com/entry/2013/07/06/120014)ということにしたい。

 そんじゃーね。