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擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

相互理解の限界

コミュニケーション

 今朝、ツイッターで「弱者に寄り添え、被害者に寄り添え、といった言葉はぼくは大嫌いだ。完全に寄り添うことなんてどうせできない、ひとの想像力にはどうしたって限界があるんだから」という東浩紀さんのツイートがRTされてきた。

 これを読んで思い出したのが、奥村隆さんの『他者といる技法』日本評論社)の一節だ。

「私たちがよく知っているのは、『わかりあう』から『いっしょにいられる』という状態だ。だから『わかりあえない』とき、『いっしょにいる』ために『もっとわかりあおう』とする。それは、おそらく『社会』という領域のある部分では、必要なことだし大切な成果を生むだろう。しかし、この技法しかもたないとき、『わかりあえない』と私たちは『いっしょにいられなく』なってしまう」(p.249)

 コミュニケーションによる相互理解、およびそれを基盤とする連帯の限界を示した言葉として、ぼくは奥村さんの見解に全面的に賛同する。また、「寄り添う」という言葉、ぼくには嫌いと言うほどのこだわりはないのだが、想像力には限界があるという点では東さんの言葉にも同意できる。他者との完全なる相互理解は不可能であって、それでも他者とどうやって共存していくのかを考えていくことは重要だ。

 実際、自己と他者との安易な同一化は、往々にして他者の存在を盾にした自己主張へと繋がってしまう。被災者でない人が「被災者の前でそれを言えるのか」といった言葉で意見の異なる他者の言葉を封じ込めようとするふるまいは、震災後にいろいろなところで見られた。

 さらに、そうした自己と他者との同一化は、自分のイメージにそぐわない被災者への攻撃にも転化しかねない。自分の頭のなかで「あるべき被災者」のイメージを勝手に作り上げ、そこから逸脱する現実の被災者を攻撃するという流れである。つい最近、ツイッターでそういう「ジャーナリスト」の言動が話題になったりしたような。

 ただ、先の引用に、相互理解の追求が「社会という領域のある部分では必要」だと述べられている点には注意が必要だ。相互理解を安易に放棄することは、結果として社会そのものを解体させてしまうのではないだろうか。

 とりわけ、ネット上の言論空間はしばしば「島宇宙」になっていると言われる。同じような意見を持つ人たちばかりがつるむようになり、それぞれの島宇宙のなかでも過激な意見を言う人の発言力が大きくなる。その結果、島宇宙間のコミュニケーションはどんどん難しくなり、まるで別の言語を話しているかのよううな状況になる。いわゆるサイバーカスケード(集団的分極化)という現象だ(キャス・サンスティーン『インターネットは民主主義の敵か』(毎日新聞社))。

 しかも、検索エンジンの精度が向上するとともに、検索連動型広告が普及するようになるにつれて、ネットの方から自分好みの情報を優先的に提示するようになってくる。左翼には左翼の好きそうな、右翼には右翼が好みそうな情報や著作が優先的に紹介される。となると、自分の意見への固執はどんどん強くなり、意見の異なる他者との溝は広がる一方だ(イーライ・パリサー『閉じこもるインターネット』早川書房)。

 もちろん、それでも別に構わないという判断もありうる。でも、意見の異なる他集団への不信感ばかりが高まり、敵か味方かという判断基準でしか他者を判断できなくなるとすれば、それはやはり「いっしょにいられなくなる」状態へと帰結してしまう。

 だとすれば、必要になるのは、他者はあくまで他者であり完全な相互理解などありえないし、あるべきでもないという諦観と、それでも同意できる部分を探そうとする努力の適切なバランスだということになる。このバランスが釣り合う部分を見出すための努力というのが必要なんだろう。

 いつもながらに、つまらない結論ではある。