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擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

日本版リベラル・コミュニタリアン論争

学問

 自民党の憲法草案をめぐって、同党の内部でも異論があるようだ。詳しくはこちら。

憲法に「家族の助け合い」を入れるべきか?自民党改憲草案に河野太郎議員が反論

 憲法をめぐっては、9条や96条などの様々な争点が存在するが、ここでは少し違った角度から、この問題について考えてみたい。

勝者が正義をつくるのか

 「正義」という概念がある。よく言われるのが、「勝った奴が正義だ!」みたいな話。たとえば、人気マンガ『ワンピース』ではこんなシーンがある。

 巨大な戦力を誇る大海賊と海軍との戦争が始まる。むろん、それぞれに「正しさ」がある。一方においては、捕らえられた仲間を助けるという正しさ、もう一方には秩序を守るという正しさ。そんななかで、登場人物の一人、ドフラミンゴは次のように叫ぶ。(誰に向かって叫んでいるのかは謎である。たぶん読者であろう)

海賊が悪!?海軍が正義!?そんなものはいくらでも塗り替えられてきた…!!

”平和”を知らねェ子ども共と”戦争”を知らねェ子ども共との価値観は違う!!

頂点に立つ者が善悪を塗り替える!!今この場所こそ中立だ!!正義は勝つって!?そりゃあそうだろ

勝者だけが正義だ!!!

(出典)尾田栄一郎『ワンピース』57巻、集英社。

 たしかに、勝者が正義をつくるというのはよくある話である。しかし、それではなぜ「正義」のような概念が必要なのだろう?「俺が勝ったんだ、だから俺の言うことに従え」と言えば話はずっとシンプルだ。

正義はなぜ語られるのか

 にもかかわらず、正義みたいなまどろっこしい概念が必要なのには、いくつかの理由がある。1つは権力の正当化だ。暴力で他人を無理やり従わせることにはそれなりのコストがかかる。むしろ、他人が自分の言うことを「正しい」と感じ、自発的に従ってくれたほうがずっと話はスムーズに進む。

 もう一つは、正義への欲求。人間は自分がずっと「間違っている」と思い続けることに耐えられなくなることがある。どこかで自分こそが「正しい」と思いたい生き物なのだ。浦沢直樹20世紀少年』には主人公が「悪になるのは大変だ、正義の味方になる方がよっぽど楽だ」と語るシーンがあるが、まさにそういうことなのだ。

 そして、もっとも重要な理由が、正義という概念なしには社会が成立しないということだ。何が正しく、何が間違っているかを定める基準がないと社会はあっという間に崩壊する。「俺の方が強いんだから、俺の言うことを聞け」だけがまかり通る社会とは、要するに北斗の拳の世界である。

 しかし、である。先の『ワンピース』の引用にもあったように、どういう境遇に生きてきたかによって価値観はぜんぜん違う。それでは、どうやって「正しさ」を決めるのだろう?

ロールズの回答

 ジョン・ロールズというアメリカの思想家は、この問いに対し、次のような回答を出した。「とりあえず、自分の生き方をいっかい忘れてみない?」

 ロールズは言う。「無知のヴェール」なるものをかぶり、自分がいかなる社会に生まれ、いかなる境遇でいかなる才能を持って生きるのかをいったん忘れることにしよう。”平和”を知らずに生きるのか、”戦争”を知らずに生きるのか、それすらも分からないのだ。

 そのうえで、「無知のヴェール」をかぶった人に「じゃあさ、どんな社会に生きてみたい?」と尋ねてみよう。すると、合理的に物事を考える人なら次のような社会を選ぶはずだ。

(1)他人に危害を加えない限り、みんなが等しく自由

(2)社会的・経済的な不平等の存在が認められるのは、以下の場合のみ

a. 全ての地位と職業がみんなに開かれていること

b.その不平等が存在することが、社会のもっとも恵まれない人の利益になること(格差原理)

 詳しい解説はしないけど、要するに無知のヴェールを脱いだあとに、自分が少数派の宗教を信仰していたり、ものすごく貧乏でかつ才能に乏しかったことが判明したとしても、ちゃんと生きていける社会を人は選択するはずだ、というのがロールズの言わんとするところだ。

 ロールズはこうした観点からアメリカ流リベラリズム(個人の自由を尊重しつつ、ある程度までは平等も重視する思想的立場)を刷新した。ところが、こうしたロールズ流のリベラリズムに噛み付いたのが、いわゆるコミュニタリアンと呼ばれる人たちだ。

コミュニタリアンの反論

 数年前に日本でも有名になったマイケル・サンデルや、チャールズ・テイラーマイケル・ウォルツァーなどが代表的なコミュニタリアンとされることが多い(もっとも、当人たちは必ずしも自分がコミュニタリアンであると認めていなかったりもするのだが)。

 上で述べたように、ロールズの理論のもとになっているのは、無知のヴェールを被ったまっさらな個人だ。ロールズはそうすることで、価値観の違いを乗り越えて「正しさ」に到達しようとしたわけだ。しかし、コミュニタリアンたちはそこに疑問を呈する。果たして「正しさ」の内容を、そのような抽象的な人格から導き出すことができるのだろうか?

 実際のところ、個人は他人との関係のなかで生きている。人間関係の網(つまり共同体=コミュニティ)のなかで人は育ち、そこで価値観を身につけていく。だとすれば、「正しさ」の基準を探すためにはコミュニティに目を向けるしかないじゃないか、というわけだ。こうして、いわゆる「リベラル・コミュニタリアン論争」なるものが始まったのだ。

リベラル・コミュニタリアン論争

 でも、言うまでもなく、このコミュニタリアンの主張にも問題がある。コミュニティと一口に言っても、ご近所から地域、果ては国家までいろいろな次元でコミュニティが存在する。そのなかで共有される「正しさ」を発見することなど、果たしてできるのだろうか?教室や職場の隣に座っている奴との間ですら難しいのに、まして国家規模での価値観の共有とかありうるわけ?という話になるのだ。

 そこで、ロールズに代表されるリベラリズムの側は、どんな価値観(善の構想)を持っていようとも共有できるような抽象的な正しさの基準(正義)を探すべきでしょ、という反論を展開する。むしろ、個々人が自分なりの善の構想を追求できるような共通の基盤こそが正義だ、みたいな話だ。ネット右翼だろうが、腐女子だろうが、ヒロイズムに酔ったお父さんだろうが、他人に迷惑をかけない限りは好きに生きられるような社会。それこそがリベラリズム的な正義が追求する社会である。

憲法に「家族の助け合い」を入れるべきか

 ここでようやく最初の話。憲法に「家族の助け合い」を入れるべきか否か。河野太郎さんは、言わばリベラリズムの側に立っている。家族を大切にするというのは、一つの価値観であり、全員がそれを共有できるわけではない。どういう境遇に生まれたかによって家族をどう考えるかは必然的に違ってくるはずだ。なので、「正しさ」の最大公約数である憲法に入れるような筋合いの話ではない、ということになる。

 他方で、自民党の憲法草案を支持する人たちはコミュニタリアン的である。家族を大切にするというのは日本というコミュニティにおいて共有される価値観であり、それを憲法に書き込むことは何ら問題ないという立場だ。実際、リンク先で自民党の土屋正忠さんは「共通の、国民が同意できる価値観を書き込むかというところは、憲法上、なんら否定されるべきものではない」と述べている。

 個々人の価値観にできるだけ入り込まず、最大公約数的な「正しさ」に基づくリベラリズム的な憲法を支持するのか、それともコミュニティによって共有される(とされる)価値観にまで踏み込んだコミュニタリアン的な憲法を支持するのか。この論争で問われているのは、まさにその点なのではないだろうか。

 最後に、ぼくはリベラリズム的な憲法観を支持したいと思う。日本のように同調圧力の強い社会では、コミュニタリアン的発想に基づく憲法は熾烈な抑圧をもたらしかねないと考えるのがその理由だ。