擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

リフレ派は苦難を語れ

 日本の偉い人たちのあいだには、どうも妙な考えが蔓延しているのではないかと思うときがある。

 それは「今の日本を立て直すためには、いちどみんなで貧しくならねばならない」という発想だ。どうも、そんな気がする。

 その発想の基盤になっているのは、言うまでもなく明治維新であり敗戦だ。西欧列強による四面楚歌のなか、後発組として出発した明治日本という物語。あるいは、焦土のなかを高度経済成長へと駆け上がっていく敗戦後の日本という物語。

 物語のスタートはとにかく貧しくてはならない。金持ち息子の成功譚だって、一回は挫折するのが物語の定石だ。

 そんな物語的土壌と、いわゆる「清算主義的発想」とはきわめて相性がよい。物事がすべからくぶち壊れて、混乱のなかから新たな物語が生まれる。破壊的創造。混乱ラバー。「マジで大混乱して、ソマリアみたいになったらどうするんですか」とか、空気を読めないことを聞いてはいけない。

 しかも、たしかに物事がすべてぶち壊れれば、あとはどんなにスローペースでも成長するしかないわけで、論理的には間違っていない。シムシティを最初からやり直す、みたいな感じだろうか。

 そこまで極端ではないにせよ、こうした物語的土壌のなかでは、マゾ的な政策が支持を受けやすくなる。不況なのに増税とか財政再建とか、総需要が足りないのになぜかインフレ対策をガンガン実施してみるとか。

 殺し文句は「将来世代に負担をかけない」。で、いま将来世代を育てている現役子育て世帯はどうなるんですか。えっ、年少扶養控除廃止で子ども手当て減額!?

 …話を戻そう。それに対し、いわゆる「リフレ派」の物語は弱い。圧倒的に弱い。

 そもそも、「景気回復」というソリューション自体の物語的基盤が脆弱すぎる。なにせ、いまの日本には「バブル」という物語が強烈に根付いている。そのせいで、たんなる好景気かもしれない状態にあっても「バブル」という言葉が飛び交うようになってしまった。ソフトランディングすればよい、という発想は決定的に乏しい。

 しかも、バブルの物語は評判が悪い。金余り、地上げ、傲慢、道徳的退廃などなど、好景気で思い上がった日本人がしでかした愚行に関するエピソードには事欠かない。バブルの罪を「失われた20年」で贖っているとでも言いたげな感じすらする。

 バブル云々は抜きにしても、財政政策による公共事業なんて「土建業者を肥え太らせるだけ」だし、金融政策によるインフレ期待の喚起というのは抽象的すぎる。いずれも、物語化しにくいのだ。

 上で少し触れたが、物語には苦難が必要だ。苦難を乗り越えて成長することが、いわゆるビルトゥングスロマンというやつだ。少年ジャンプの漫画を思い起こせばよい。その点では清算主義的発想は申し分ない。次々と現れる、日本経済を闇で牛耳る「既得権者」たち。彼らを打ち破って行かない限り、日本に明日は来ないのである。天下一武道会も真っ青だ。

 ところが、リフレ派の「物語」にはそれがない。インフレによる物価の上昇に対して給与は硬直性があるから、一時的には生活が苦しくなることもありうるという話も聞いたりもする。しかし、それもあまり物語的とは言えない。

 リフレ派の一部が、財務省や日銀への攻撃に走ったのも、そういうリフレ派の物語的欠落を埋め合わせようとする衝動だったのではないかという気もする。強大な敵を設定するというのは、物語を盛り上げる手っ取り早い手段だからだ。

 他方で、左派の人びとの多くも、こういう「経済成長路線」には冷たい。とても冷たい。

 なぜか。彼らの多くには暗黙のうちに「経済成長=功利主義=弱者切り捨て」とか「経済成長=富裕層への富の集中」とかいう別種の物語が共有されている。たしかに、経済成長をすれば弱者への分配も大きくなる、とは限らない。成長した分が富裕層ばっかりに行く可能性は高い。

 しかし、それはそれ。とりあえずパイの取り分を大きくしておいて、そこから弱者の取り分を大きくするよう頑張るという発想があっても良いはずだ。だが、そうはならない。

 いろいろな理由が考えられるが、上の「物語」だと弱者救済は経済成長の「おまけ」のようなかたちになってしまうということがあるのではないだろうか。パイが大きくなったから、その「おまけ」を恵まれない人たちにも少し分けてあげる、みたいな感じだ。

 彼らからすれば、弱者救済は経済成長の程度に関係なく実施されるべき、社会の最優先課題だ。そんな彼らに「衣食足りて礼節を知る」とか言っても、なかなか聞いてはもらえない。景気が悪く、税金の使われ方に社会の厳しいまなざしが注がれているときほど、社会保障関係の支出は攻撃される可能性が高いと思うんだが。

 いずれにせよ、リフレ派の主張がなかなか受け入れられない背景には、彼らの物語の弱さと、それに対抗する上述の物語の強力さがあるのではないか。

 それでは、リフレ的主張の物語をより幅広く受け入れてもらうためにはどうすればよいのか。それは、このエントリの表題にも示したように、苦難を語ることだ。財務省や日銀云々といったスケールの小さな物語ではなく、よりドラマチックな苦難とそれを乗り越えていく人びとの姿を語ることが必要だ。

 それはきっと容易なことではないけれども。