擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

牛丼福祉論再訪

 ちょうど去年のいまごろ「牛丼は福祉か」という話題が盛り上がったことがあった。そのきっかけになったのが、若手論客である古市憲寿さんが対談で語った次のような言葉だ。

【古市】なるほど、すき家はいいですよね。牛丼やファストフードのチェーンは、じつは日本型の福祉の1つだと思います。北欧は高い税金を払って学費無料や低料金の医療を実現しています。ただ、労働規制が強く最低賃金が高いから、中華のランチを2人で食べて1万円くらいかかっちゃう。一方、日本は北欧型の福祉社会ではないけれど、すごく安いランチや洋服があって、あまりお金をかけずに暮らしていけます。つまり日本では企業がサービスという形で福祉を実現しているともいえる。
(出典)「ネット新時代は銀行不要」の現実味【2】

 この発言には多くの批判が行われたわけだが、このエントリでも触れられているように、一般的な「福祉」という言葉のイメージと乖離している点を除けば、それほど奇異な発想とは言い難い。

 エスピン=アンデルセン福祉レジーム論の観点からすれば、福祉の提供主体には政府のほか、市場や家族も含まれる。北欧諸国などの社会民主主義レジームでは政府、米国に代表される自由主義レジームでは市場、大陸ヨーロッパ諸国や日本などの保守主義レジームでは労働組合や企業、あるいは家族が福祉提供の中心になるとされる。

 人びとの生活を安定させるための社会的支援という意味での「福祉」は、誰かが必ずやらねばならない仕事なのであって、それぞれの国の経済や政治状況、支配的なイデオロギーなどによって誰がその主たる役割を担うのかが決まってくる。たとえば、米国では公的な福祉制度が他の先進国に比べて未発達なわけだが、そのぶんだけ米国人は市場を介して福祉サービスを購入しているということになる。

 こうした観点からすれば、牛丼のような安くて美味しい食事が購入できるということは、お世辞にも充実しているとは言い難い日本の福祉制度のもとでは大きな意味を持つ。たとえば、労働時間短縮、育休、デイケアセンターなどを利用できない共働きの育児世帯にとって、気軽に利用できるコンビニや外食店が近所にあることは非常に助かるはずだ。

 ぼくはいまロンドンで暮らしており、日本の外食店の安さや美味しさを日々痛感している。イギリスの食事は不味いとよく言われるが、実際にはお金さえ出せば美味しい店もある、と個人的には思う。だが、安くて美味しい店となると非常に限られてしまう(そもそもイギリスで外食をすると20%の付加価値税が課される)。

 それに比べ、300~500円でそれなりに満足のできる牛丼屋のなんと素晴らしいことか。日本にいたころにはファミレスの「ガ○ト」でケータイ・クーポンを利用し、子どものためによくキッズメニューを頼んでいたが、あれは本当に異様な安さだったと思う。

 ただし、この牛丼福祉論には大きな問題がある。一つは地域差だ。コンビニや外食店は利益の上がるところでしか営業できない。したがって、都市部ならまだしも、人口の少ない地域で牛丼福祉論は成立しない。

 もう一つは、それが低賃金労働に支えられてきた点だ。外食産業の従業員の待遇が悪いことはよく知られており、その待遇の悪さが価格の安さを支えてきたことは否めない。安い外食店が結果的に「福祉」を提供してきたのだとしても、劣悪な労働条件に支えられているのであれば、それをそのまま肯定することはできない。

 実際、ここしばらくの人手不足によって外食産業に人が集まらなくなってきていると言われる。倒産や営業時間の短縮が起きる一方、人件費の高騰や円安の影響もあって、いよいよ外食産業の値上げが迫っていると報道されている。

 もちろん、人手不足によって外食産業で働く人たちの雇用状況が改善されるのであれば、それは本当に喜ばしい。このことはいくら強調しても足りないほどだ。しかしその一方で、これまでのように気楽に外食店が利用できなくなるのなら、たとえ都市部限定であっても成り立っていた牛丼福祉論は完全に崩壊する。

 その場合、外食産業が担っていた「福祉」を別の誰かが担わねばならないことになる。市場が駄目ということになれば、残るは政府か家族しかない(いまさら企業の福利厚生に頼るのは難しそうだ)。しかし、膨大な財政赤字に苦しむ日本で、公的な福祉制度が急激に拡充することを期待するのは難しい。となると、結局は「家族」ということになるんじゃなかろうか。

 子育て中の身としては、あまり楽しくない予想ではあるのだけれども。

 あと最後に一点だけ。いくら北欧でも「中華のランチ2人で一万円」というのは相当な高級店ではないかと思う(北欧にはこの夏に一度行ったきりだが、そこまで高いとは思わなかった)。イギリスでコストパフォーマンスの高い食事をしたいのなら、それこそ中華のランチで点心を食べるのがお勧めである。