擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

役割を担うこと

 ぼくが高校生のときの話だ。

 学校の講演会で、視覚障害をもつ男性のお話をうかがう機会があった。詳細はさすがに覚えていないが、一つだけとても印象に残る話があった。

 その方には、まだ小さなお子さんがいた。ときどき、その方のところに「お父さん、本読んで」とお願いをしに来る。

 だが、障害のために本を読んであげることはできない。それでも本を開いて、ページをそっとなでる。だが、読めない。

 この話がなぜ印象に残ったのか。当時、その理由はわからなかった。それでも、ページをただ触るその方のイメージがぼくの脳裏に強く残った。

 それから、およそ20年がすぎた2011年3月。東日本大震災にかんするある記事が、ぼくに強烈な印象を残した。その記事の一部を紹介しておこう。

津波に襲われた(宮城:引用者)県南三陸町。30代の母親ががれきの中でうずくまり、泣いていた。「なんにも悪いことしてないのに。どうして……」あの日、2歳の娘を寝かしつけ、山向こうの町に買い物に出て地震に遭った。山を越えて轟音(ごうおん)が響いてきたが車は動かず、坂道を走った。そこから先の記憶はない。娘は翌日、自宅があった場所から400メートルほど離れたがれきの下で見つかった。消防団員が顔を拭いてくれていた。いつもの歯磨きのように、口を大きく開けて指で泥をかきだしてあげた。震災3日後、がれきの中から、やっとアルバムを掘り出した。砂ぼこりが巻きあがる中、泥だらけのアルバムを胸に母親は泣き続けた。
(出典)『朝日新聞』2011年3月24日朝刊。

 これを読んだときにも、なぜこの記事が強く訴えかけてくるのかがわからなかった。

 それからしばらくして、考え事をしながらぼくは勤務先の大学のキャンパスを歩いていた。そのとき、先の視覚障害者の方のお話と、この記事とが突然に結びつき、これらがなぜ強い印象を残したのかがようやくわかった気がした。

 ぼくは、役割を果たせない悲しみに打たれていたのだ。

 視覚障害者の男性は「本を読んであげる」という役割を果たすことができず、震災で幼子をなくした母親は「歯磨きをしてあげる」という役割をもう果たせなくなってしまった。その悲しさが、強い印象となって残ったのではないかと思う。

 思えば、役割と共感や感動は深く結びついている。たとえば、スポーツドキュメンタリーなどで、選手たちが自らに課せられた役割を真摯に、懸命にこなしている姿は多くの人の心を打つ。一般的に期待されるよりも遥かに大きな熱量で役割を果たそうとする人の姿は感動的だ。逆に、たとえ望んでも役割を果たせなくなってしまった人の悲しさも、やはり強く心に残る。

 おそらく、この背景には「人は誰しも何らかの役割を果たすべきだ」という考えが深く内面化されていることがあるのではないかと思う。

 言うまでもなく、この考えには非常に危険な側面がある。

 「役割を果たしていない/果たせそうもない人間は不要だ」という発想につながりかねないのだ。この手の発想が過去において巨大な暴力と殺戮とを生んできた歴史を忘れてはならない。

 あるいは、役割の押しつけが人に過剰な負担を生じさせる結果をもたらしうることも自明だ。だから、嫌な役割から降りたり、逃げたりする自由も当然なくてはならない。

 ただそれでも、役割を真摯に果たすことへの畏敬や、役割を失ってしまったことの悲しみまで否定してしまうのは、どこか間違っているのではないかと思う。

 ここで必要なのは、「役割とは何か」をずっと広げて考えることだ。カネを稼ぐことだけが人の役割なのではない。人間の役割はもっと複雑で、もっと多様だ。

 正月に帰省したとき、父と話す時間があった。

 ここ数年、認知症になった母を父はずっと介護している。デイケアサービスも利用しているが、基本的には一人で母の世話をしている。

 仕事を辞めてから、暇になるかと思いきや、母の介護でむしろ忙しくなったぐらいだと父は言う。「お母さんを看取るのが俺の役目や」

 仕事を辞めたあと、父は新しい役目を見つけたんだと思った。家事をなにもしない「昭和の夫」だった父は、いまずっと尊敬できる人になった。

 そして母も、父に生きがいを与えるとともに、孫の目の大きさやまつげの長さ、肌の色の白さを何百回も褒めるという役割をちゃんと果たしている。

 もちろん、現実はそんな綺麗事だけでは回っていなくて、悩みや不安、いざこざはつねにある。それでも、新しい役割を懸命に担っている父は、やはり立派だと思う。

 そんな正月だった。