擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

紛争地域の報道とメディアの責任

 人質事件に端を発し、紛争地域での取材活動が大きな問題となっている。

 1月26日には『朝日新聞』のイスタンブール支局長がシリアのアレッポに入り、2月1日には現地からの記事が同紙に掲載された。『毎日新聞』は1月31日にその事実を報じ、『読売新聞』や『産経新聞』がそれに続いた。

 『毎日』の記事は、外務省が『朝日』に記者の出国を要請したという事実を報じるだけの短いものだ。しかし、『読売』や『産経』の記事は、『朝日』の記者が外務省の退避要請を無視してシリアに入国したことを伝えており、批判的なニュアンスが強い。

 『読売』や『産経』のこうした姿勢に対して、ぼくは強い不快感を覚えるのだが、このエントリではその理由について述べてみたい。

 そもそも、危険な地域での取材活動というのは誰かがやらねばならない仕事だ。情報の欠落はその地域で何が起きているのかを外部から見えなくしてしまう。もし第三者の観点から事態を報じる人びとがいなければ、現地から出てくるのは紛争当事者からの大本営発表や、Youtubeなどの過激なプロパガンダ動画、あるいは安全な地帯に避難した人びとからの断片的な情報だけということになってしまう。

 実際、多くのメディアはかなりのリスクを背負いながら危険な地域からの報道を行なっている。たとえば、リンク先の動画は英国の公共放送局BBCが昨年の11月にシリアのアレッポからのニュースとして報じたものだ(リンク)。この動画を見る限り、レポーターはかなりのリスクのもとで取材をしていることがわかる。

 また、今年の1月31日には同じく英国の『ガーディアン』紙の記者がシリア北部のコバニに入り、現地の状況を伝えている(リンク)。クルド人ISISから奪回したために当時とは状況が変わっているとはいえ、コバニは殺害された後藤健二さんが拉致された場所だとも言われている。なお、英国政府は「すべての英国民」に対してシリアからの即時退去を求めている(リンク)。

 もっとも、誤解してもらいたくないのだが、危険な地域に記者を派遣するメディアが優れていて、派遣しないメディアが劣っていると言いたいわけではない。メディアにはそれぞれ得意分野やリソースの違いがある。たとえば日本の地方紙に対して世界各地に記者を派遣しろというのは無茶な要求だろう。

 だからこそ、メディアは一方においては競争をしながらも、他方では情報を融通しあうことで広範囲にわたる報道を行なっている。加盟している通信社からニュースを受け取るというのはその典型的な事例だし、あるメディアがスクープを飛ばせば、他のメディアも後追いで取材をしなくてはならないことも多い。競争に熱心な記者にとっては悔しい話だろうが、違う角度から見ればこれも一種の協力体制だと言えなくもない。

 しかし、それでもリスクの大きな危険な地域からの報道というのはどうしても不足しがちになる。フランスの国際通信社であるAFPがシリアの反体制派の支配地域における取材を断念し、当該地域に関するフリーランスの記者からの記事も買わないという判断をしたというのはネットでもよく知られているが(リンク)、その理由としてもリスクの大きさが挙げられている。

 ただ、AFPはなおもシリアの首都であるダマスカスに支局を置き、ニュースを発信している。ダマスカス近郊ではまだ戦闘が続いているにもかかわらず、である(リンク)。つまり、そこで求められているのは「記者をシリアに入国させるか否か」という大雑把な判断なのではなく、「シリアのなかで特に危険な地域に記者を送るか否か」という判断だ。そういった判断は、最終的にはジャーナリスト個人やメディア組織が自らの持つ情報やリソースと相談しながら行なっていくしかない。政府が一律に決められるような話ではないのだ。

 しかも、あえて言えば『読売』と『産経』の両紙には紛争地域からの情報伝達により大きな責任がある。両紙ともに現政権の集団的自衛権や積極的平和主義という外交方針に賛同する姿勢を見せているからだ。

 個人的には、その方法論は入念な検討が必要だとはいえ、日本が世界の紛争解決に積極的に関与していくという方向性は間違っていないとは思う。そして、もしそうなのであれば、日本の有権者には紛争地域に関する情報がこれまで以上に必要になる。

 当該の紛争地域における日本の貢献はそもそも可能なのか、いかなる貢献をすべきなのか、現状の貢献は妥当なのか等々、有権者としてはそれらを知ったうえで政権の評価する必要がある。その際には海外メディアに依存するだけではなく、日本人の視点からの情報は欠かせない。

 有権者がそうした情報を欠いたまま、政府が積極的平和主義に関与していくのであれば、それは政府への白紙委任にほかならない。民主主義にとって決して望ましい状況とは言えない。『読売』と『産経』が集団的自衛権や積極的平和主義を支持するのであれば、両紙には紛争地域に関する情報の発信をより積極的に行なっていく道義的責任があると言っていい。

 とはいえ、両紙が現時点では記者をシリアに送ることができないという判断を下したのであれば、それ自体は必ずしも批判されるべきことではない。シリア全土が危険すぎると見なし、安全を確保しながら取材をするためのリソースが自社にはないと判断したのであれば、それはやむをえないだろう。

 だが、そうであってもリスクを取った『朝日』に関する告げ口的な報道を行うというのは、やはり報道機関としての挟持矜持を疑わせるには十分である。それは言わば、危険地域の情報という他のメディアが生み出す共有財産にフリーライドしながら(厳密に言えばフリーライドではないのだろうが)、その共有財産を豊かにしようとする試みを妨害していることにほかならないからだ。『朝日』の混乱に乗じて同紙の読者をかすめ取ろうとする昨年来のセコい戦略の続きであるようにも見える。

 急減させているとはいえ、『読売』はなおも世界一の発行部数を有する新聞社である。その部数を誇るのであれば、報道機関としての覚悟をもう少し見せてくれても罰は当たらないだろう。

 以上、偉そうなことをつらつらと書いてきたが、ぼく自身は安全なところでぬくぬくと調べ物をしたり、論文を書いたりしているしがない研究者にすぎない。しかし、だからこそ安全面を十分に考慮したうえで、なおもリスクを取る決断をした個々人や集団は応援していきたいと思う。