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擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

「リベラル」って誰のこと?

 ネットではよく「戦後リベラルは…」といった物言いを目にする。そこで言及される「戦後リベラル」というのは大抵頭の悪そうな主張をしていて、柔軟性に欠ける一方、平気でダブルスタンダードを行使する卑劣な輩であったりする。

 こういう物言いが気になるのは、ぼくが自分のことを(一応は)リベラルだと考えているからなのだろう。自分では全く支持しないような意見であっても「リベラル」だというだけで、それを支持していることにされてしまう。これはあまり愉快な経験ではない。

 おそらくそれは「リベラル」に限った話ではないはずだ。「フェミニズム」、「サヨク」、「ウヨク」、「ネトウヨ」等々のカテゴリーにしても同様のはずだ。自分では口にしたこともないような意見についてまでそれを支持していることにされてしまう。実際、この手の粗雑なカテゴライズは緻密な議論を展開するうえではそれほど役に立たない。むしろ邪魔になることのほうが多いだろう。

 にもかかわらず、この手のカテゴリーがしばしば利用されるのは、「楽だから」という理由が大きいのではないかと思う。たとえば、「戦後リベラルは…」という代わりに「丸山真男は…」と言えば、「丸山はそんなことを言っていない」という反論が起きかねない。存命の人物であれば、正面から反論されることもあるだろう。ところが、誰を指すのかも定かではない「戦後リベラルは…」というカテゴリーを使っておけば、指示対象が不明なので反論もされづらい。

 この手の曖昧なカテゴリーは、自分の意見の卓越性や独創性を強調するうえでは実に便利だ。そこにカテゴライズされた連中が頭の悪い硬直的な意見を持っているほどに、自分の議論の踏み台にしやすい。この手の論法をよく「藁人形論法」と言ったりするが、藁人形のなかに誰が入っているのかが定かではないほど、藁人形としての使い勝手は良くなる。

 学術論文を書くさいにも、この手の藁人形論法の誘惑はある。既存の研究者が頭の悪い議論をしてくれているほど、自分の研究の意義や独創性を示しやすいからだ。論文のアブストラクトだけにざっと目を通し、それを自分が作った既存研究の見取り図に当てはめる。他の研究者が苦労しながら作り上げた緻密な議論をせいぜい1、2行で要約し、それを自らの「独創性」によってあっさり否定する。実にお手軽な「既存研究の整理」だ。

 しかし、実際のところ、そんな見取り図に綺麗にあてはまる単純な議論を展開している研究者というのはあまりいない。引用に値するような研究者であればなおさらだ。ある論文で引用されている別の論文に目を通したところ、その引用のされ方に首を傾げるケースというのは決して少なくない。

 とはいえ、既存研究の整理をしなくてはならない以上、何らかの単純化は避けられない部分もある。様々な研究者の議論を逐一詳しく紹介しようものなら、論文のストーリーとして複雑になりすぎてしまうし、字数制限にもひっかかる。そこで、脚注において引用した論者の議論をもうちょっと細かく紹介したりする。罪滅ぼしのための脚注といったところだろうか。

 話を戻すと粗雑なカテゴリーを使って話をすれば、確かに議論を整理しやすいし、何かを分かったような気持ちにもなる。しかし、粗雑なカテゴリーばかりを使っていると、その人自身の思考もやがて粗雑になっていってしまうのではないだろうか。より精緻な思考を展開するためには、まずは他人の議論にきちんと耳を傾ける必要がある。その人が何を問題視し、何に悩んでいるのかを理解する努力を続けることが、自らの思考を深めていくために必要なステップであるはずだ。

 確かに、政治的な領域では粗雑なカテゴライズが避けられない部分もある。敵/味方という構図のもとでは、敵対する相手の議論を単純化し、それを貶めることは有用な手段となる。でも、そういった「政治的なもの」の論理だけで日常的なコミュニケーションが展開されていく状況というのは、やはりどこか間違っているように思う。