読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

戦没者を弔うことの意味について

社会

 安部首相の靖国神社参拝が波紋を広げている。

 ぼく個人としては止めておけばよかったのにと思っているが、それはとりあえず措く。また、戦没者の弔いにあたって靖国という場は本当にふさわしいのか、政治問題化したのは誰のせいかを論じたいのでもない。そうではなく、ここでは死者の弔いが政治問題になってしまったことの「悲しさ」について述べてみたい。

 戦没者の弔いというものはきわめて政治的な色彩を帯びる。それは日本に限った話ではなく、暴力装置を抱える国家を再生産していくうえで不可欠の儀式だからだ(念のために言っておくと、暴力装置というのは社会学等ではわりとオーソドックスな用語で、特に軍隊を貶めるような意味合いはない)。国家意志の遂行過程で命を落とした人びとに対して礼を尽くすことなしに国家は存続できない。

 しかしそれでも、戦没者の弔いをめぐる政治が繰り広げられることにはやはり悲しさがある。たとえば、安倍首相の靖国参拝に関するBBCのニュースには次のようなQ&Aがある。

靖国神社が中国や韓国をそれほどに刺激するのなら、なぜ安倍氏は参拝したのか?
第一に、彼がそうしたかったからだ。安部氏を熱心に観察している人びとは、彼が心の底からナショナリストであり、歴史修正主義者だと語っている。戦争時の日本の指導者たちに有罪判決を下した裁判は「勝者の裁き」だったと彼は信じている。彼自身の祖父である岸信介は戦時内閣におり、米国によってA級戦犯の嫌疑で逮捕された。岸は後に告訴されることなく釈放されている。しかし、中国での日本の戦争犯罪との関わりに起因する汚点は決して完全に消え去ることはなかった。第二に、安倍氏の支持基盤は自民党の右派にある。東京のテンプル大学のジェフ・キングストン教授によれば、安倍氏は「彼がタフガイであること」、つまり中国を恐れないということを誇示している。それは彼の基盤にとっては非常に効果的に働くのだという。
http://www.bbc.co.uk/news/world-asia-25517205

 言うまでもないが、ぼくには安倍さんが靖国に行った本当の動機はわからない。おそらくは、戦没者に対する心からの弔慰があるのだとは思う。だがその一方で、上のBBCの解説記事にあるような「外国からの干渉を恐れない指導者像」を演出し、反韓、反中感情を利用しつつ党内や世論からの求心力を強めようとしたのではないかという疑念も拭い切れない。政治問題化することで、どうしてもこうした動機の深読みを引き起こしてしまう。つまるところ、戦没者政治利用しているだけなんじゃないかという疑念だ。

 他方で、首相の靖国神社参拝に反対し、千鳥ヶ淵を拡張することで国立の追悼施設を新たに作るべきだという意見にも同じような疑念を感じることがある。

 実際のところ、靖国神社の存在そのものを肯定できないがゆえに、首相の参拝にも反対する。しかし、ただ反対するだけでは戦没者をないがしろにしていると批判されかねない。そこで、本音ではどうでも良いのだが、そのような批判を回避するためだけに国立の追悼施設の必要性を論じているだけなのではないか…という疑念だ。もちろん、これも疑念というか下衆の勘ぐりである。

 いずれにせよ、政治問題化すればするほどに、戦没者への弔慰が単なるアリバイ作りではないかという気がしてくる。韓国や中国に吠え面をかかせるために靖国に行くのか。ツイッターでは安倍首相が靖国に行ったことで「スカッとした」「爽快だ」という感想を述べている人を見かけるが、スカッとした、爽快だ、という感想と戦没者への弔慰はものすごく遠い感情なのではないだろうか。あるいは、自分が戦没者に感謝していることをアピールするためだけに、近隣諸国から文句を言われないためだけに新たな追悼施設の必要性を訴えるのか。

 しかもそれは、他人に対するアリバイ作りというだけではなく、自分自身に対するアリバイ作りという側面もあるように思う。戦没者に対する弔慰のみならず、自分が愛国者であることを、自分が良き日本国民であることを自分自身に示すために、靖国参拝あるいは代替的施設の必要性を訴えているという側面が心のどこかにないだろうか。

 人間の動機は複合的なので、純粋な弔慰があったとしても、周囲の雑音が大きくなるほどそこに様々な思惑が入り込んでしまう。政治問題になるとは、まさにそういうことなのだ。いまは亡き人をただ偲ぶという行為からはどうしても遠ざかってしまう。

 とりわけ、直接的な面識や関係がない場合、戦没者に感謝を捧けるという行為はそうした自意識の介入を生じさせやすい。純粋な弔慰というよりも、思想に後押しされた弔慰とでも言うべきものだ。よき国民であれば戦没者に感謝すべきだという思想がまずあって、そこから感謝の念をひねり出しているという感覚である。

 ただそれでも、戦場で心ならずも倒れた人たちや、空襲のなかで失われた無数の命に、自意識の介入や思想のバックアップ抜きに思いをはせる瞬間がどこかにあればいいのに、とは思う。それがどれだけ難しいことであっても。