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擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

批判の流儀

 ネット上では誰かを批判したり罵倒したり揶揄したりということが盛んに行われている。他人の考え方が気に食わないのか、間違いを正したいのか、それとも単に相手よりも自分のほうが知的に優れていることをアピールしたいのか…。その理由はともかく、誰かを批判する声が止むことはない。

実名批判の問題点

 ただし、批判をするといっても、いくつかの流儀がある。一つは、批判する相手を名指しするやり方だ。個人名、ハンドル名、組織名などを具体的に挙げ、その言動を批判する。このような批判は、相手がはっきりするというメリットはあるものの、人格攻撃になってしまう可能性もある。

 たとえば、書評をするさいにその著者の人格を徹底的にこき下ろしてから本の内容がいかに下らないかを論じるというスタイルを取る人がいる。誰とは言わないが。だが、こういう批判はどうしても印象操作になりやすいし、そもそも品がない。

 しかも、人格に問題があるからといって本の内容も劣っているとは限らない。その逆もしかり。実際、本の内容は面白いのにその著者のツイッターの書き込みを見るとがっかりするというのはよくある話だ。誰とは言わないが。だから、人格と言論の内容はある程度は切り離して考えたほうが良いだろう。

 そこで、具体的な名前を挙げることなく、考え方だけを取り上げるというやり方もある。最近の例で言えば「特定秘密保護法案への反対意見として機密情報の定義が曖昧だという批判があるが、しかし…」というかたちを取れば、具体的な人物や組織の名前を出すことなく批判を行うことができる。批判のやり方としてはおそらくこれが最もスマートだし、建設的だと思う。議論で重要なのは、誰かの人格を貶めることではなく、意見をぶつけあうことでより優れた意見を導き出すことなのだから。
 
 けれども、こういうやり方は議論のプロレスを見たいむきには物足りない。具体的な登場人物がいるからこそやはり喧嘩は盛り上がる。ネットの喧嘩では、より優れた意見が出てくるのを見たいのではなく、泥仕合でお互いを傷つけ合ったり、醜態を晒すのを見たい、というわけだ。

「リベラル」は消滅し、リベラル批判だけが残る

 批判のもう一つのやり方としては、何らかのカテゴリーを批判するという方法もある。具体的な人物や組織の名前ではなく、それらの人物や組織に適用できるカテゴリーをこき下ろすわけだ。この間、ブログで書いた「インテリ」、「知識人」なんてのもそうだし、「サヨク」「ネトウヨ」「ヘサヨ」「リベサヨ」「リベラル」「マスゴミ」等々、批判のために使われるカテゴリーは数多く存在する。

 カテゴリーを使った批判のメリットはまず、反論される可能性が低いということ。具体的な人物や組織の名前を出せば、当人や周囲の人物から反論される可能性がある。そのような面倒くさい事態を避けて、言いっぱなしの批判をするためには、抽象的なカテゴリーに文句を言っておくのが手っ取り早い。

 もう一つのメリットは、主語を大きくすることで、より大きな社会問題として論じることができるという点だ。個人ではなく「インテリ」の問題として、具体的な新聞社ではなく「マスゴミ」の問題として論じることで、自分の批判を日本社会全体に関わる問題提起として位置づけることができる。

 もちろん、デメリットもある。一つは、カテゴリーを使うことで、批判の対象がどうしてもぼやけてしまう点だ。たとえば、「マスコミは特定秘密保護法案に反対するが…」といった批判をよく目にする。だが、実際には産経新聞と読売新聞は同法案に賛成していた。特に読売新聞は日本、もっと言えば世界で最大の発行部数を誇る新聞社だ。その読売新聞が賛成しているのに「マスコミは反対」などと言われると、どうしても違和感がある。

 しかも、あるカテゴリーへの批判が集中するようになると、そのカテゴリーに自分を帰属させようとする人はだんだん減ってくる。「インテリ」や「知識人」などは最たるものだが、このままだと自己を「リベラル」と見なす人も減っていくのではないだろうか。結果、「インテリ」、「知識人」、「リベラル」への批判は無数に行なわれる一方で、それらのカテゴリーを使って自己規定する人がほとんどいないという不毛な事態になっていく。

ダブスタ批判が藁人形を呼ぶ

 カテゴリーを使った批判の対象がぼやけてしまう理由はほかにもある。それは、批判の対象に関する情報が追加されていくときに起きやすい。

 「脱原発運動は、放射線の風評被害を煽って福島の人たちを傷つけている」という批判を例にとると、脱原発運動を支持しながらも、放射線への恐怖を過度に煽るような主張に対して批判的な人は少なくない。そのため、「脱原発運動」に対する上記の批判は、対象とのズレを生じさせてしまう。こうした例は決して珍しくなく、あるカテゴリーに関する情報がどんどん追加されていくことで、そのカテゴリーに当てはまる人がいなくなってしまう事態にすらなりうる。

 ネット上ではそういう批判の流儀を「藁人形論法」と言ったりする。つまり、自分が批判しやすい偶像を勝手に作り上げて、それを延々と叩き続けるというやり方だ。批判している本人にとってはストレス解消になるかもしれないが、傍で見ている分には「コイツはいったい何と戦っているんだ」という感想しか出てこなかったりもする。

 そして、このような藁人形論法を生みやすいのが、いわゆるダブスタ批判だ。自分が好きな相手、遠慮している相手には文句を言わないのに、自分が嫌いな相手が同じことをすれば罵詈雑言を投げかけるというのがダブルスタンダードダブスタ)であり、それを批判するのがダブスタ批判だ。

 日本の過去の人権問題ばかりを取り上げて現代中国のチベットウイグルの人権問題は批判しないではないか、民主党政権下での尖閣ビデオの流出では政権を擁護していたくせに自民党政権下で出てきた特定秘密保護法には反対するのか、などという批判を例として挙げることができる。

 たしかにダブスタ批判は痛快だ。批判の相手が自己にとって都合の良い尺度でしか判断できないことを暴露できるからだ。言論に一貫性を欠き、ダブスタを平気でかますような相手の主張は相手にする必要がないと切り捨てることができる。だからこそ、ネットではダブスタ批判が盛んに行なわれるのだろう。

 けれども、特定のカテゴリーに向けられたダブスタ批判は藁人形論法へと帰結しやすい。あるカテゴリーがダブスタを行っているという指摘もまた、そのカテゴリーに対する情報の追加に他ならないからだ。そのカテゴリーに属しているとされながらもダブスタを行っていない人が存在すれば、批判の矛先はどうしてもあやふやになってしまう

(ついでに言うと、ダブスタ批判には「あらゆる出来事に対して同一の尺度で判断すべきだ」という前提があるのだが、その前提が果たして妥当か否かは検討に値すると思う)

 とはいえ、カテゴリーを使った批判を全否定するのも難しい。カテゴリーを使うことで、これまで見えなかったものが見えてくるという事態は確かにありうる。だとすれば、カテゴリーを使った批判をするさいには、できるだけその定義をはっきりさせ、批判の矛先をより明確にしておくことが必要だろう。

 以前のエントリで書いたが、ぼくは高校時代、「おいら」という一人称(I)を使っていた。ところが、ぼくの周囲では二人称複数(we)として「おいら」を使う連中がけっこういた。そんななかで、ぼくが「おいら、成績が悪いからな」と発言したところ、周囲にいた連中までもが「成績が悪い」という話になってしまったことがあった。

 批判の対象があんまりぼやけるのは良くない、とつくづく思う。