『おおかみこどもの雨と雪』をめぐって
いきなりで恐縮なのだが、『おおかみこどもの雨と雪』の話だ。何でも12月20日に日テレで放送されるらしい。
この映画が劇場で上映されたさい、以下のブログのエントリが話題になったことがあった。コメント欄を見ても、微妙に炎上している感がある。
映画『おおかみこどもの雨と雪』の母性信仰/子育ては1人では出来ません - デマこいてんじゃねえ!
上のエントリで述べられている主張を一言で言えば、『おおかみこども…』は「母性信仰」が強すぎるということになるだろう。つまり、子育てにまつわる多大な困難が主人公の「母性」によって乗り越えられてしまう、というわけだ。
以下はネタバレだが、主人公の女性は狼男の血を引くこども二人をたった一人で育てることになる。ただでさえ辛いシングルマザーなのに、彼女の子どもたちは人間と狼の中間的存在であり、病院にさえ連れて行くことができない。予防接種までも受けさせられないので、虐待を疑われる始末だ。
だが、主人公の女性は実に強い。はっきり言ってスーパーウーマンだ。苦労しつつも、次々とやってくる難関を自分の力で何とか克服していく。もちろん、途中からは周囲の人たちの助力もあるのだが、基本は彼女の母性の強さこそが物語を動かしていく。
先のブログを書いた人の不満は、こうした物語が時に人を追いつめてしまうことに起因しているのではないだろうか。以下の指摘はまさにそのことを示している。
現実世界で子供に手をあげる母親たちは、「母性が弱い」のだろうか。母親たち一人ひとりの「母性」が強くなれば、そういう問題は解決されるのか。子育ては「母性」の――母親の個人的な責任なのか。
(出典)http://d.hatena.ne.jp/Rootport/20120723/1343052351
あらかじめ言っておくと、ぼくは子育てに関して、このブログの著者の意見に完全に賛同する。一人での子育ては難しい。二人でもしんどい。本来は周囲のサポートがあってしかるべきだと思う。また、たとえば廃墟寸前の家屋を自力で改装したりする主人公の描写にリアリティが欠けることも事実だと思う。
典型的な「物語」はどのように展開するのか?
それでは、上記のブログの映画評を批判する人はどこに反感を抱いているのだろうか。反論はいろいろあるのだが、なかでも興味深いと思ったのが以下のコメントだ。
一見すると、花(主人公:引用者)はなんでもできるスーパーウーマンですが、それは花というキャラの性格設定上導かれる行動であり、母一般を表現しているのではなく、花という人物を描いているに過ぎません。それが有り得ないという時点で、物語を読む姿勢としておかしいのではないだろうかと思うのです。
(出典)http://d.hatena.ne.jp/Rootport/20120723/1343052351
ここでのキーワードは「物語」だ。
物語の筋書きにはいくつかのパターンがあると言われるが、よくあるパターンとしては以下のような感じになる。
安定した状態→よそ者の来訪→安定が崩れる→安定を取り戻そうとする努力が行なわれる→よそ者が去る→当初とは微妙に違うが安定した状態が再び訪れる
平和な世界に悪の魔王がやってきて勇者がそれを倒す、という流れを想定すればイメージしやすいんじゃないかと思う。これを『おおかみこどもの…』に当てはめることこんな感じになるだろう。
一人で暮らす主人公(当初の安定)→狼男の出現およびその子どもの出産(よそ者の来訪)→不安定な生活→安定を取り戻すための引っ越し&奮闘→子どもたちの独立→一人暮らしに戻る主人公(安定の回復)
物語と「自己責任論」
そして、このような物語の展開において不可欠なのが主人公の意志だ。安定を回復するべく、主人公がどのように考えていかに行動したかが物語の推進力になる。もちろん主人公の思惑通りに事が進むとは限らない。けれども、物語の読み手や視聴者の多くは主人公に感情移入しながら物語に接するがゆえに、主人公が意志を喪失してしまった物語にはフラストレーションが生じやすい。
たとえば、『新世紀エヴァンゲリオン』の旧劇場版を思い出すと、劇場で見終わったとき、周囲にいた客が「シンジ、まじムカつく」と吐き出すように言ったことがあった。確かに、『エヴァゲリオン』の旧劇場版は、途中で主人公が完全に意志を喪失してしまい、見る側にとってはイライラさせられる展開であった。「お前、もっとシャンとしろ」と思った人は多かったのではないだろうか。
このように、読者や視聴者にすっきりした感じを与えるためには、主人公の意志とそれによる安定の回復とが必要になる。つまり、主人公自身の力でなんとかするという局面があったほうが感動は生じやすいのだ。
だが、このような構造の物語は、登場人物の意志以外の力を描きにくくする。最終的な安定の回復が主人公以外の超個人的な力によって成し遂げられてしまうと、見る側からすれば「何じゃそりゃ」という話になってしまう。物語上で生じた様々な問題が、最後に現れた神(機械仕掛の神、デウス・エクス・マキナ)によって一挙に解決されてしまうという古代ギリシャの演劇の手法があるが、あまり評判がよいものではない。やはり登場人物たちの意志の結果として問題が解決され、安定が回復されたほうがスッキリする。『名探偵コナン』で、コナン君が活躍することなく目暮警部率いる警察組織が毛利蘭のピンチを救ってしまったら、視聴者としてはやはりガッカリするのではないだろうか。
それゆえ、物語というのは、そもそも自己責任論と親和性が強い。主人公の成功や失敗は彼または彼女の意志次第だとされるがゆえに、その背後にある様々な問題がどうしても見えづらくなるからだ。実際、ニュース番組でも物語的に取材対象を描き出すことがあるが、そうしたタイプのニュースは自己責任論へと帰結しがちだとも言われている。冒頭で紹介したブログでの『おおかみこども…』への批判も、このような観点から理解できるのではないだろうか。
そして、そのような物語の特性は、たしかにそれに接した人を追い詰めることがある。物語は多くのばあい、何らかの「教訓」を含んでいる。主人公が努力によって問題を克服していく物語は、多かれ少なかれ努力の大切さを伝えている。逆に言えば、主人公が努力によって克服しえた問題をお前が乗り越えられないのは、お前自の努力が足りないからだというメッセージにもなるということだ。
『おおかみこども…』において、主人公が超人的な努力(あるいは母性)によってきわめて困難な子育てを乗り越えていく描写が、困難さの度合いにおいてそれより下がるお母さんたちを追い詰めるものになる可能性は否定できない。
力をくれる物語
だが、まさにそれゆえに、物語はそれに接した人に力を与えてもくれる。主人公の懸命さに、愛の強さに感動し、それに続こうと思わせてくれる。
ぼく自身、以前の職場でフラストレーションが溜まったときには、漫喫でよくジャンプ系のマンガを読んでいた。「友情・努力・勝利」という単純なコンセプトのマンガは、自分が置かれた状況など取るに足りないものだと思わせてくれた。ジャンプ系マンガの主人公たちが直面する、強さのインフレが極まったかのようなライバルたちに比べれば、嫌味な上司など屁みたいなものではないか。正直な話、『おおかみこども…』にしても、見終わったあとには「子育て、もっと頑張らないとな」と思ったことを告白しなくてはならない。
もちろん、ある物語から「人を追い詰めるメッセージ」を引き出すのか、それとも「人に力を与えるメッセージ」を引き出すのかは、個人個人の解釈による。どちらかが優れていて、どちらかが劣っているという話でもない。前者の解釈をする人と後者の解釈をする人とは意見が合わないだろうが、それはもう仕方がない。
むしろ、そうした多様な解釈を可能にするからこそ、物語は素晴らしいのではないかと思う。