擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

最大多数の最大幸福?

 「最大多数の最大幸福」という言葉を初めて聞いたのは、高校生のときだったと思う。功利主義なる考え方を簡潔に示すとされるこの言葉、おそらくは世界史か何かの授業で耳にしたのだろう。でも、その言葉が何を言わんとしているのかがいまいち理解できなかった。なんでそんな当たり前のことをわざわざ言うのだろう?と、ぼくは思った。

 たとえば、グラフ1を考えてみよう。A、B、C、D、Eはそれぞれ個人にとっての利益の大きさを指す。さて、政策1と政策2、どちらを選択すべきだろうか。むろん、政策2だろう。最大多数の最大幸福。当たり前すぎる。

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 ところが、この考え方が難しくなるのが、グラフ2のような状況が生まれたときだ。

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 政策1と政策2,どちらを選ぶべきだろうか。A、B、C、Eにとっては政策2のほうが得だ。しかも、Dのマイナス分を引いたとしても、政策2のほうが全体の利益は大きい。最大多数の最大幸福に忠実であり続けようとするなら、政策2を選択する…ということになる。だが、Dにとってはたまったものではない。

 実際、多数の利益のために少数の人が極端な損害を被るという状況は好ましくない。日本でも評判になったマイケル・サンデルの『これからの正義の話をしよう』で紹介されていた思考実験を挙げるなら、ある健康体のひとをバラバラに切り刻み、臓器を摘出することで何人もの命が助かるという状況を考えてみよう。健康体なのに臓器を奪われる人にとっては受け入れられるはずのない決定だが、その臓器を受け取って命を長らえる人の数はそれよりも多い。しかし、そうだとしても、これはやはりやってはいけないことだろう。現代の功利主義論者も、最大多数の最大幸福をこのようなやり方で実践することには否定的だ。

 さらには、多数派さえよければ少数派に何をしてもよいという発想は、様々なかたちで批判されてきた。たとえば、「人権」という概念には、国家による権利侵害のみならず、多数派による権利侵害から少数派を保護するというニュアンスもある。民主主義政体であっても、というか民主主義であるからこそ、多数派の利益の名のもとで少数者の権利が抑圧されることにもなりかねない。だからこそ、いかなる理由によっても奪われることのない権利として人権が必要になるのだ。

 しかし、ぼくは極端な事例においては、功利主義の原理そのままに少数者の権利を侵害せざるをえない状況が存在しうるのではないかと思う。ここで紹介したいのが、藤子・F・不二雄さんの「いけにえ」という短編だ(以下、ネタバレ)。

 この話は、謎の宇宙人が地球にやってくるところから始まる。しかし、一般の地球人には、宇宙人の目的が何なのか、さっぱりわからない。

 そんなある日、池仁平(いけにへえ)という、どこかの若手社会学者を思い出させなくもない名前の主人公は、謎の男たちに誘拐されそうになる。運良く難は逃れたものの、家に帰った仁平を待ち受けていたのは、一人の新聞記者だった。

 その記者は驚くべき話を始める。実は、宇宙人はエベレストを消滅させ、地球人の迎撃を難なく切り抜けるなど、圧倒的な科学力を世界各国の政府に見せつけたうえで、ある一つの要求をしていた。それは、ある一人の地球人を宇宙人によこせば、大人しく地球を去るというものであった。そして、その地球人というのが、まさしく仁平なのである。

 記者は、その直前に仁平が誘拐されそうになったことを聞くと、身を隠させる。しかし、その潜伏先は発覚してしまい、仁平は政府の手の者に監禁されることになる。その時の会話が次のコマだ。

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(出典)藤子・F・不二雄(1987)『愛蔵版SF全短篇1 カンビュセスの籤』中央公論社

 ここで仁平が語っているのは、人権の論理だ。何人も奪うことの出来ないものとして彼は自らの命の重さを主張する。それに対し、政府の手先が語るのは、まさに功利主義の論理であり「最大多数の最大幸福」である。

 その後、仁平にどんな運命が待っていたのかは原作を読んで貰いたい。ここでぼくが言いたいのは、仮に政治家としてぼくがこうした状況に直面したとすれば、やはり仁平を宇宙人に差し出すという選択しか取り得ないのではないか、ということだ。

 むろん、これはマンガだし、こんな極端な状況などありえないと思われるかもしれない。しかし、統治者という立場になれば、どうしても功利主義的な発想で動かざるをえない状況は出てくる。たとえば、福島原発の事故処理とはまさにそういう状況だったはずだ。

 菅首相(当時)のリーダーシップに関しては数多くの批判が寄せられている。だが、東電の真意がどこにあったのかは未だ意見が分かれるものの、菅首相東電福島原発から撤退するなと迫ったこと自体を批判する声はほとんどない。

 福島原発の危険な状況を踏まえるなら、通常であればそこで働く人々の人権が最優先されるはずだ。しかし、とりわけ4号機の燃料プールに貯蔵された大量の核燃料に万が一のことがあれば、東日本に人が住めなくなる可能性すらあったとすら言われる。数千万人が一斉に避難するということになれば、膨大な人命が失われる可能性すら否定できない。そうした状況において、東電の撤退を容認するという政治的オプションは存在しない。いま関東に人が住むことができているのは、まさに功利主義的な判断のおかげなのかもしれないのである。

 むろん、だからといってつねに功利主義的な発想で政策を決定すべきだということにはならない。むしろ、極限的な状況では最大多数の最大幸福を優先させねばならないからこそ、平時にはそこからこぼれ落ちる幸福を重視して欲しいと思う。そして、どうしても最大多数の最大幸福を優先させざるをえないのであれば、その犠牲になった人たちには手厚い保障をして欲しいと思う。

 加えて、最大多数の最大幸福の犠牲となるのは、つねに他人とは限らない。自分自身や自分が大切にしている人たちが犠牲になることもありうるという想像力は大切にしたい。有権者の大部分が高齢者となった民主主義社会では、これから社会を担う若い人たちにとって不利な意思決定ばかりがなされる可能性も否定できない。

 人は功利主義なしには生きていけない。だが、功利主義だけでは生きている資格がないのだ。