擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

「学問のひと」と政治(追記あり)

学問は「私が一番正しい」ことを明らかにする

 世の中には、同じ領域であってもまったく見解が異なる学問的立場というものが存在する。経済学は素人なので、確たることは言えないのだが、いわゆる近代経済学とマルクス主義経済学というのがそれに該当するのではないかと思う。しかし、全く立場が異なる研究者のあいだで激しい論争が起きるかと言えば、必ずしもそうではない。

 というのも、お互いの出発点も認識もまったく違うので、話がそもそも噛み合わないのだ。むしろ、学問的論争というのは、立場はわりと近いものの方法論や認識のうえで見解を違える研究者のあいだで発生することが多い。たとえば、古いけれども、マルクス主義者の間で起きたミリバンド―プーランツァス論争などが想起される。

 これは学問というものの性質上、仕方がないことだと言える。(自然科学については無知なので分からないけれども)人文社会科学の場合、研究は既存研究の批判的な整理から始まる。「これまで☓☓の領域について研究は行われてきたが、△△の領域は未開拓である」という整理の仕方はあるものの、「これまでは○○と言われてきたが、それは違うのではないか」というように既存研究の誤りを指摘することも多い。

 そして、そのさいに批判の対象となるのは、自分と近い立場にある研究者であることが多い。研究というものは進展するほどに細分化していくので、まったく違う立場の人を批判するところから始めるとどうしても非効率になる。あえて立場が近い人を批判したほうが、自分の研究のオリジナリティを示すうえでは遥かに手っ取り早い。

 ここからもう一つ言えるのは、研究者が論文を書く目的は「自分の主張が正しい」のを説得的に示すことにある。全く立場が異なるAとBという学派があったとして、A学派の研究者の目標はたいてい、A学派のほうがB学派よりも正しいことを示すよりも、A学派のなかで自分の考えが一番正しく、妥当性があるのを示すことにある。A学派の人にとっては、B学派など最初から眼中になく、したがってA学派全体の正しさを示す必要性も感じないのだ。

「グループが正しい」ことを主張する政治

 それに対して、政治というのものは全く異なる原理に従って動く。政治の定義というのは結構難しくていろいろとあるのだが、一つには多くの人を組織化し、同じ方向へと向かわせるということがある。

 もちろん、人にはそれぞれ違う利益や考え方があるため、それらをうまく調整することは政治家にとって重要な課題になる。古い例で恐縮だが、日本でテレビの放送免許を地方局に交付するさい、利害が対立してにっちもさっちも行かなくなったことがあった。テレビ事業をやりたい人がたくさんいて、誰に免許を与えるべきかで激しく揉めたわけだ。

 そこに登場したのが当時の郵政大臣田中角栄だ。田中は錯綜する地域の利害をばっさばっさと整理し、放送免許の大量交付を行った。田中は「政治とは欲望の分配」だと述べたそうだが、田中の政治を肯定するにせよ否定するにせよ、そういった利益や考え方の違いを調整することが政治の重要な課題であることは否定できないだろう。

 言うまでもなく、そうした調整において重要なのは、細かい相違にこだわらないことだ。「まあ、そういう細かいことはいいから、とりあえず酒でも飲もうや」というような鷹揚な態度が政治にはどうしても必要になる。細かい違いは脇において、とりあえず大枠で合意や妥協できるところを探す。そういう親分肌的なふるまいが政治をする人には求められる。

 そして、もう一つ、政治には重要な側面がある。それは、友/敵関係という言葉に示されるように、対立する集団との抗争である。いくら利害の調整が必要だとしても、それだけで政治が完結するわけではない。異なる派閥、または政党との間での抗争は不可避だし、逆に言えば、そういう抗争が存在しない政治状況はきわめて不健全だ。

 そして、そのような政治的抗争において使用される言葉は、どうしても単純で大雑把なものになる。多くの人を味方に引き込むためには、複雑な概念などご法度であり、きわめてシンプルに自分たちがいかに正しいか、対立陣営がいかに間違っているかを語らねばならない。AというグループとBというグループがあったとすれば、政治的抗争で必要なのはAに属する人にはA全体の正しさを、Bに属する人にはB全体の正しさを強調する態度だ。それぞれのグループのなかで誰が最も正しいのかということは全く重要ではない。

学問と政治を混同すると

 以上のように、学問と政治は全く異なる原理に従って動いている。どちらが優れていて、どちらが劣っているといった話ではまったくない。学問の領域と政治の領域とでは異なる行動原理が求められるという話にすぎない。

 ところが、学問のひとやそれに近い体質のひとが政治の領域に入り込んだとき、意識してかどうかはわからないが、少なからぬ人が学問的に行動してしまう。集団全体の正しさではなく、自分自身の正しさに拘泥する。

 自分が所属する集団の方針に気に入らない部分があると、敵対している集団への批判を忘れているのではないかと思えるぐらいに自分の集団を激しく批判する。それは言わば学問的良心の発露と言えるものだが、政治的に行動している人からすればそれは分派行動にしか見えない(1)。

 他方で、学問のひとが政治的に振る舞うことにも問題はある。先に述べたように、政治は利害調整や対立構造において動く。そこで使用される言語はどうしても大雑把になる。政治に関わる以上、そういった言語使用に入り込んでいくことは不可避だ。時にはレッテル貼りや強引な解釈に基づく敵への攻撃に加担することにもなるだろう。

 しかし、学問のひとが政治に入り込んでいったとき、周囲の人びとにはその人が学問的誠実性に基づいて発言しているのか、それとも政治力学のなかで発言しているのかがわからなくなる。一見すると学問的な誠実さに基づいて発言しているようでいて、実は政治的な利害に沿って発言しているというのは、やはり好ましくない。その意味で、政治へと介入する学問のひとにはつねに危うい側面がある。

 このように考えるのなら、研究者の政治参加(アンガージュマンとも言う)はやはり慎重に行うべきだろう。それでも政治に関わるというのなら、その人は政治的に行動したほうが良いだろうし、自分はあくまで政治的な人間として行動しているのだと明言すべきだろう。

 研究者としての自己を保ちながら政治に関わるということは、結局のところ集団の内部分裂か欺瞞しか生まないのではないだろうか。

(追記 2014/6/15)
 ついでに言うと、学問のひとが展開する政治は、どうしても間口が狭くなる。自分たちの意見とかなりの程度まで一致しないと、別の人たちと一緒に政治活動を行うことができないからだ。

 民主主義の規範理論のなかでは「ある決定について同一の理由で賛成する」ことを良しとする研究者と「別の理由であっても賛成する」ことを是とする研究者とが存在する。学問のひとが前者を追求するとすれば、政治的な人間は当然に後者を追求するだろう。政治的な勝利を優先させるなら、前者に拘泥することは最初から敗北を運命づけられているからだ。

 もちろん、自らの正しさを重視する学問のひとにとって、それは大きな問題ではないかもしれない。しかし、政治的な敗北は現状肯定へと帰結する。もしそれでも構わないというのであれば、そのひとにとって一番重要なのは、現状を改めることではなく、自分の正しさを証明することなのだろう。
 

脚注

(1)かつての新左翼運動が内ゲバを繰り返していったのも、大学を拠点とした彼らの運動が政治的な原理というよりも学問的な原理によって動いていたからという部分があるのではなかろうか。