読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

「ナショナリズム批判」というナショナリズム

 むかしから、愛国心(patriotism)とナショナリズム(nationalism)はまったく違うものだとよく言われる。たとえば、ジャーナリストにして小説『1984年』や『動物農場』を書いたジョージ・オーウェルは、愛国心について次のように述べている。

「自分では世界中でいちばんよいものだと信じるが他の人びとにまで押しつけようとは思わない、特定の場所と特定の生活様式に対する献身」

(出典)ジョージ・オーウェル、小野協一訳(1968=1995)「ナショナリズム覚え書き」(川端康雄編『水晶の精神 オーウェル評論集2』平凡社、p.36。

他方、オーウェルナショナリズムについては次のように述べる。

「人間が昆虫と同じように分類できるものであり、何百万、何千万という人間の集団全体に自信をもって『善』とか『悪』とかのレッテルを貼れるものと思い込んでいる精神的習慣」、「自己をひとつのネーションその他の単位と一体化させ、それを善悪を超越したものと考え、その利益を推進すること以外の義務はいっさい認めないような習慣」

(出典)オーウェル、前掲書、p.36。

 これを読めば、オーウェル愛国心を肯定的に、ナショナリズムを否定的に捉えていることは一目瞭然だろう。要するに、愛国心とは祖国への寛容な愛であり、ナショナリズムとは偏見であり傲慢である。オーウェルに限らず、ナショナリズムは有害だが愛国心は必要だと論じる人は多い。

 しかし問題は、こういう区别自体がナショナリズムになりかねないということだ。つまり、往々にして「我々が有しているのは健全な愛国心だが、隣国の連中が有しているのは危険なナショナリズムだ」という区别がなされてしまう。そこからさらに「愛国心こそが我々の優越性の証であり、ナショナリズムを連中が発露させているのは劣等な存在だからだ」という話になると、これはもうオーウェルが言う意味でのナショナリズムそのものだ。

 極端な話だと思われるかもしれないが、寛容を説いている人たちが「寛容でない」と見なされた人びとを不寛容に排除したりするケースはいくらでもある。ナショナリズムへの批判が結果としてナショナリズムになっても不思議ではまったくないのだ。

 とりわけ、こういう逆説が問題になりやすいのが、近隣諸国のナショナリズムを批判する場合である。当初はナショナリズム批判で始まったものが、気がつけばナショナリズムそのものになっている。

 一例を挙げよう。よく知られているように、お隣の中国ではメディアを介したナショナリズムが無視し得ない状況になっている。

…国家主導の愛国教育キャンペーンは大いなる成功を収めた。1990年代から2000年代にかけて中国ではナショナリスト的な感情によって加熱された大衆デモが高揚した。典型的には、それらは2005年の歴史教科書論争のケースのように日本という敵か、あるいは2008年にフランスの首都でオリンピックの聖火リレーが中断されたことに続いて発生したデモに示されるように西洋をターゲットとするものであった。しかし、同時期における中国メディアの変化とそれらメディアと国家との関係の変化なくしては、そうしたキャンペーンはナショナリズムへの幅広い民衆の支持を生み出すことはなかっただろう。インターネットの利用が拡大するなかでメディア市場が商業化し、多様化したことは、情報の交換における共産党の独占を終焉させ、世論に影響を与える半独立的な機関としてメディアを確立するのに寄与した。商業的な利益とオーディエンスをめぐる競合に衝き動かされ、それらのメディアはナショナリズム反日感情が人びとに訴えかけるアピールを利用し始めた。それは、国家主導の愛国教育のためばかりでなく、それ自体が儲かるからであった。

(出典)Sabina Mihelj (2011) Media Nations, Palgrave Macmillan, pp.154-155.

中国で反日ナショナリズムが高揚した背景には、国家主導の愛国教育のみならず、メディアの商業化が大きく作用していたという指摘だ。多くの人びとにアピールしうるナショナリズム的な言説にはそれだけの商業的価値があるという話。続けてもう一つ。

新たなコミュニケーション・ツールの影響があまりにも強力であったがゆえに、インターネット・ナショナリズムは中国ナショナリズムの歴史に新たな幕開けをもたらし、漢民族の排外性と「敵へのバッシング」を再び際立たせることになった。エスニックなショーヴィニズムに反対する穏健でリベラルな知識人たちはしばしばオンライン上で「裏切り者」と罵られた。インターネットを通じて、敵と認識された人びとや内部の「裏切り者」の両方に対するサイバーいじめ(cyber bullying)の連鎖反応が扇動された。その一方、「小日本(xiao Riben)」や「鬼子(guizi)」などの中傷語は中国のインターネットのチャットルームにおいて広く行き渡った。同様に、漢民族のショーヴィニストたちは、2009年に新疆で行われた平和的なウイグル人たちのデモを人民解放軍が抑圧したことを称揚し、チャットルームのディアスポラナショナリスト(1)たちは更なる殺戮を要求していた。

(出典)Daniele Conversi (2012) ‘Irresponsible Radicalisation,’ in Journal of Ethnic and Migration Studies, vol.38(9), p.1367.

 中国でもインターネットはヘイトスピーチに満ちており、穏健派の人たちが攻撃される一方で、少数民族への抑圧が称揚されるという指摘である。

 これらの指摘を見ると、やはり深刻な問題であることは否定できないし、少数民族への抑圧についても無視することはできないと思う。根気よく批判していく必要があるだろう。

 しかし、その一方で、こういう話が別種のナショナリズムに繋がってしまうという不安もある。当たり前の話だが、13億以上の中国人全員が反日思想に凝り固まっているわけではない。「中国人は反日ナショナリストだ」ということ自体、一種のステレオタイプの域を出ない。「中国人はナショナリストなのだから差別してもよい」とか「追い出すべきだ」という話になると、排外主義的なナショナリズムへと一直線である。

 以上のように、他国のナショナリズムに対する批判は、わりと簡単にこちら側のナショナリズムへと転化してしまう。他国の批判すべき点をきちんと批判しつつ、その批判をこちら側のナショナリズムの資源にしないためにはどうすればよいのか、ぼくにはまだ明確な答えがない。

 最後に、冒頭で述べた愛国心ナショナリズムとの区别の話。個人的には、ぼくはそんな区别はしなくて良いと考えている。たとえ愛国心と呼ぼうとも、集合的なアイデンティティにはつねに排外主義と同調圧力がつきものである。愛国心またはナショナリズムから良い部分だけを抜き取って利用することはできない。

 したがって、たとえそういった集合的アイデンティティを肯定する場合であっても、それらの危険性を認識し続けるために、あえて負の意味合いをも有しているナショナリズムという言葉を使うべきではないか、と思う。


(1)この論文は、母国を離れて海外で暮らす人たちの集団(ディアスポラ)たちのインターネット・サイトが時に極めてナショナリスティックになり、母国の政治への無責任な介入が試みられることを論じている。