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擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

隅っこの、隅っこの、そのまた隅っこの研究

学問

 先日、このようなツイートがRTされてきた。

https://twitter.com/akiradicalism/status/357622954697297920

 これは小坂井敏晶 『社会心理学講義:〈閉ざされた社会〉と〈開かれた社会〉』(筑摩選書)からの引用のようだ。本来なら原著から直接に引用すべきなのだが、いまは海外にいて手に入らないので、やむを得ず孫引きをする。

 さて、小坂井さんはとても好きな研究者だし、ぼくなんかよりも遥かに業績のある方なので恐縮なのだが、これはやはり傲慢な意見だと思う。研究の動機なんて人それぞれでいい。趣味で研究をする人がいてもいいし、世の中を少しでも良くしたいと思って研究をする人がいてもいい、とぼくは思う。

 そもそも、普通に考えれば論文や著作を書いたところでそれが世の中をすぐに良くすることなどありえないというのは誰でも分かるはずだ。世の中を動かしたいと思うなら、官僚か政治家を目指したほうがまだ可能性は高いだろう。研究を重ねるほどに、そういうことは嫌というほどに思い知らされる。

 だからこそ、「研究で人びとを幸せにしたいです」などと脳天気に言っている(ように見える)人に対する憤りが生じるのではないか。自己の社会貢献に対する絶望があるがゆえに、研究は絶対に趣味であるべきであり趣味でなくてはいけないのだという強固な信念が生まれる。そうした心理が上の引用文の背後にあるのかもしれない。 

 だが、繰り返しにはなるが、研究の動機なんて人それぞれであっていい、とぼくは思う。そこで、自分自身を振り返っていったい何のために論文を書いているのかを考えてみる。

 論文を書く作業はなんだかんだ言って大変だ。ブログであればどんどん湧いてくる文章がなかなか出てこない。書いては消し、書いては消しの繰り返し。「この書き方だと誤解を招くかもしれない」、「この表現だと次の段落につながらない」、「『しかし』や『だが』を使いすぎで文章の流れがくちゃぐちゃになっている」等々。しかも、言うまでもなく論文を書くためには事前の入念なリサーチが必要で、うまく行くこともあれば行かないこともある。そういう膨大な手間をかけてまで、いったい何のために論文を書くのか。

 以前であれば、やはり大学のポストが欲しいというのが大きかった。ぼくのように何かに秀でた業績があるわけでもない人間がアカデミック・ポストを得るためには論文がなければお話にならない。しかし、なぜ大学でのポストが欲しかったかと言えば、要するに恵まれた研究環境が欲しかったわけで、ポストというのはより良い研究をするための手段でしかない。しかも大学に職を得た今ではそれは動機にならない。

 出世が目的かと言われるとそれも違う。ぼくの勤務先は昇格審査がそれほど厳しくないし、そもそも現時点ではそれほど昇格したいとも思っていない。

 だとすれば、あとは名誉欲ということになるだろう。しかし、たとえばぼくが今日書き上げた論文の読者数は媒体が媒体だけにおそらく片手で足りる数だ。もしかすると、ぼくを除けば、校正のために原稿に目を通す業者さんだけなのではないかという気すらする。

 ついでに言うと、日本に帰国したあとで単著を出したいと考えているのだが、仮に出版されたとしてもアマゾンの売上げランキングで最高50万位ぐらいの部数しか売れないんじゃないかとも思う。これぐらいの水準でしか人の目に触れないものを書いているぼくの研究動機が、世の中を少しでも良くしたいなどというものだとすれば、頭がおかしいんじゃないかと思われても至極当然だろう。

 でも、研究の広がりというのは横(同時代的な広がり)だけではなく、縦(時間的な広がり)でも考えなくてはならない。横の広がりについては、さっき書いたように絶望的にまで狭い。したがって、希望があるとすれば縦の広がりしかない。

 たとえば、数年後、あるいは数十年後にどこかの図書館の片隅で、ぼくの書いたものを読んで「こんな考え方をする奴はけしからん」と憤慨して、自分の書く論文のなかで槍玉にあげる人がでてくるかもしれない。あるいは「こんな愚考を重ねてたバカがいる」と、面白エピソードとして紹介されるかもしれない。

 それはそれで、その人の思考を刺激出来たということでは意味があったわけだ(ぼくがこのエントリの最初で挙げた引用文のおかげで刺激を受けたように)。あるいは、もっと好意的に受け止めてくれて、そこからさらに思考を発展させてくれるかもしれない。そうやって誰かの思考の血となり肉となり、それがやがて大きな流れに加わって、新しい考え方に結びついていくなんてことがもしかしたら万が一にでもあるかもしれない。

 実際、古典と呼ばれる著作を読んでいると、今ではもう忘れられてしまった研究者の名前をたくさん目にする。そういった忘れられてしまった人たちの存在にまったく意味がなかったのかというと、もちろんそうではない。その人の思考は批判的にであれ肯定的にであれその古典を書いた研究者に受け止められ、現在にまで伝わっている。そういう大きな流れに加わることが研究者の研究者たる所以なのだと思う。

 そして、そのような大きな流れになった学問は、良くも悪くも社会に影響を与えていく。『一般理論』のなかでケインズは「知的影響から自由なつもりの実務屋は、たいがいどこかのトンデモ経済学者の奴隷です。虚空からお告げを聞き取るような、権力の座にいるキチガイたちは、数年前の駄文書き殴り学者からその狂信的な発想を得ているのです」と述べたという(山形浩生訳)。

 ぼくがいま少しずつ読んでいる、ナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』にしても、シカゴ学派的な反ケインジアン経済学が世界の経済秩序の変化にいかに大きな影響を与えたかを力説している(もっとも、やや悪魔化が過ぎるような感もあるけど)。経済学に限らず、その他の社会科学だって社会に影響を与えることはありうる。これまた良くも悪くも、1990年代の選挙制度改革において政治学者が果たした役割は小さくないはずだ。

 もちろん、一人の研究者が大きな流れをつくり出すことは本当に希だ。それでも、そういう流れの隅っこの、隅っこの、そのまた隅っこのあたりで何かの流れに加われたらいいと思う。そして、それが多くの人びとにとって良い流れであることを信じたい。たとえぼく自身は忘れ去られることを運命づけられていたとしても。