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擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

衰える妄想力

雑想

 大学教員にとっての憂鬱な業務として入試監督を挙げる人は多いんじゃないかと思う。

 問題用紙や解答用紙を配布し、受験者のチェックなどを済ませると、もうやることがない。論文を読んだり、仕事をしたりするのはむろんご法度。居眠りなぞ論外。かといって、会場内をうろうろしすぎると「足音がうるさい」などとクレームが来かねない。かつては受験票を眺めつつ「おお、こんな遠くからも受験生が」などと思う楽しみもあったが、最近では個人情報保護の観点からそれも禁じられてしまった。問題冊子をパラパラとめくるぐらいが関の山だが、それもたいして面白いわけでもない。

 結局、入試監督というのはその場にただ存在し、息を吸って吐くのが主たるお仕事なのである。われわれに残された唯一の自由な空間は、頭の中だけだ。虚ろな目をしながら頭の中で論文や授業の構想を練りつつ試験終了をただ待つ。しかし、1科目目ならまだしも、2科目目、3科目目になってくると、だんだんと考えるネタも尽きてくる。そこで気づくと、ぼくの頭は生産性のカケラもない妄想に突入しているのである。

 今年度のぼくの妄想は「100兆円持っていたらどう使う?」であった。とりあえず、ぼくの自宅から交通アクセスに恵まれない現在の職場へと地下鉄を敷く。それだけでは面白くないので、既存の路線から離れた地域を通りつつ都心へと伸びる新線とする。どことどこを結ぶか、終点はやはり東京駅だろうか、などと構想を練っていく。

 あとは、大学院を終了したものの行き場がなくて困っている研究者のための大規模な研究施設も作りたい。特に人文社会系の研究者をたくさん集め、待遇を保証することはもちろん、研究スペースも提供して好きなテーマに取り組んでもらう。研究所の場所は…、具体的な待遇は…、年間の必要経費は…などを考えているうちに確かに時間は流れる。

 しかし、こうやって改めて書いてみると、我ながら妄想力の低下を痛感せざるをえない。なんというか、妄想なのに冒険がないのである。

 ぼくが大学院生のころ、隕石映画が流行ったことがあった。巨大隕石が地球に落下してくるんだが、どうしよう?という映画である。こういうテーマは妄想人にうってつけである。

 巨大隕石を破壊するために地球から発射された有人ミサイル。その搭乗者がなぜか僕なのである。地球に向けたメッセージはこうだ。「地球のみなさん。地球を本当に救うのはぼくではありません。みなさん一人ひとりが地球をこれから救うのです。」メッセージの最後は妻と子に宛てたものだ。「○○(妻の名前)、大切にできなくてごめんな。☓☓(子どもの名前)お母さんを大切にするんだぞ。」当時、まだ学生で独身だったぼくは、この妄想にふけりながら目頭を熱くしたものである。

 ぼくの犠牲によって救われた地球では、ぼくの命日は世界共通の祝日となる。仏教ではぼくは仏陀の生まれ変わり、イスラム教ではアラーに次ぐ預言者、そしてキリスト教では(おそらく)東洋人初の聖人とされる。あるいは、父、子、精霊、そしてぼくという四位一体説が唱えられる。これにより世界宗教の真の対話が始まるのである。

 あるいは、当時の人気アイドルだった広末涼子さんがぼくの出身大学に入学するというのも、お気に入りの妄想であった。広末さんはぼくが指導する学部生のサブゼミに入る。そして、外の廊下が野次馬でごった返すなかでぼくは彼女に熱く学問を語るのである。実に麗しい。しかし、当の広末さんは早稲田に行ってしまったばかりか、そこも中退してしまったのだった。

 それにしても、ぼくの妄想力はなぜこんなにも衰えてしまったのだろうか。かつてはシャワーを浴びながら妄想に耽り、自分がリンスをしたのかどうかも覚えていないということがしょっちゅうあった。しかし、今はあまりない。

 一つには、やはり未来が開かれている時にこそ妄想は楽しいというのがあるのかもしれない。たとえば、ぼくがかつて妄想していた結婚式は、富士山の山頂で行う予定であった。参加者が見守るなか、富士山の火口からリフトに乗ってせり上がってくる新婦。そして、白いタキシードに身を包んだぼくは、ヘリコプターから延びる縄梯子に片手でつかまり、もう一方の手にバラの花束を抱えて空から新婦を迎えに行くのである。ぼくが心配していたのは、参加者が高山病にならないかということ、新婦が黒焦げにならないかということであった。

 だが、現実には普通の式場で普通の披露宴をあげてしまったぼくには、もはやこういう妄想に耽る力がない。突如として一人暮らしを始めることになったという設定のもとYahoo!の不動産情報で1LDKの部屋を無駄に探してしまうぐらいがせいぜいの、つまらない大人にぼくはなってしまったのである。

 人気アイドルとの学問的ロマンスにしてもそうだ。たとえば、今、ぼくのゼミにAKB48のメンバーが入ってきたとしても、さすがにロマンスが発生するのは困る。妻や子の顔が浮かぶ。妄想の中ですら現実の制約は追いかけてくる。

 そう考えると、荒唐無稽な妄想に耽るというのは、まだ人生のレールがそれほど定まっていない、若い人の特権のように思えてくる。たとえ現実の人生がそれほどドラマチックでもロマンチックでもなかったとしても、たとえ中二病と笑われようとも、妄想は楽しく生きる上での貴重な糧になる。そこで最後にこう言いたい。

 青年よ、妄想を抱け!