擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

ヒロインはなぜ清楚系か

(ツイートのまとめ)

 実家に帰省中、奥さんが本を持ってくるのを忘れたので、ぼくが持っていた小説を貸した。すると、次のような質問がやってきた。

 「どうして貴方が愛読する小説の主人公はいつもうじうじ苦悩していて、ヒロインは決まって黒髪の清楚系で、おっとりしていて天然なのに、実はしっかりしているという設定なのですか」(大意)

 主人公がうじうじ苦悩しているというのは、その手の自意識過剰系の人物に共感できるからにほかならない。

 ヒロインがおっとりした清楚系というのは、見た目が派手で積極的な女性は遊んでいそうとか、浮気しそうというイメージ(偏見)があるのかもしれない。しかし、ぼくが考えるに、より根本的な理由がある。そうした女性は決して自分のような男性を恋愛対象としては認識しないだろうという意識があるのだ。あるいは、清楚でおっとりした女性であれば、自分の容姿や性格を蔑み、嘲笑したりはしないだろうという(考えてみれば根拠に乏しい)発想があるのかもしれない。

 ただし、おっとりしていて天然だといっても、男性の言うことになんでも従うようなヒロインを望んでいるわけではない。「自分が言うことに何でも従われる」というのは、行動の責任は全て男性にあるということにある。そこまでを背負う覚悟はないのだ。

 なので、男性の存在を全否定しない範囲で女性にも主体性を発揮して欲しいというこれまた身勝手な願望がそこにはある。あんまりにも自分が駄目なときにはちゃんと叱って欲しい感じと言えるかもしれない。

 ちなみに、こういうキャラクター造型の場合、男性あるいは女性の側の積極的なアプローチによって恋愛が成就する可能性は低い。双方が奥手だからだ。したがって、恋愛を促進する要因となるのは「外在的な状況」ということになる。

 何らかの偶発的な要因によって一緒に住まざるをえなくなる、一緒に活動せざるをえなくなる等々によって無理やりに関係性が生み出される。さすがに恋愛関係へと至るには何らかの主体的な行為が必要になるが、それは最後の最後、最小限の主体性によって成就される。全てがお膳立てされたところで「好きだ」とようやく言える/言ってもらえる。それが精一杯なのだ。

 …というのが、ぼくの回答になるわけだが、書いていてものすごく駄目な感じがしてきた。でも、こういうタイプの小説が読んでいて楽しいわけで、娯楽なんだから別にいいじゃないかとも思う。女性向けのマンガを読んでいても「ここまで女性にとって都合が良いだけの男が存在してたまるか」「男子高校生の頭のなかがここまで清浄の地であってたまるか」等々の感想をしばしば抱くので、お互い様と言ってよいのではなかろうか。

 とはいえ、ぼくが好む小説は奥さん的には気持ち悪いということなので、残念ではある。

伊織とアスカ

 40歳をとう過ぎたオッサンがこんな話をブログに書くというのはいかがなものだろうか。そう悩みつつも書かずにはいられない。それが今回のエントリである。

 『ココロコネクト』というアニメがある。原作はライトノベルでアニメは2012年7月から9月にかけて放送された。男子高校生2人、女子高校生3人をメンバーとする文化研究部なるグループが登場し、その唾棄すべきリア充的展開が数十年も前の不毛な高校時代をぼくに想起させるというトラウマ的作品である。いやまあ、面白いことは面白いのだが、ぼくのようなオッサンが熱く語る作品ではないと思う。

 …という、どうでもいい感想は措くとして、先日、その14話から17話を見るという機会を得た。それは実に社会学的に解説してみたくなるエピソードなのだが、残念なことにその解説を聞いてくれる人がぼくの周囲にはいないし、授業でも取り上げづらい。そこで、いつものテーマとは大きくずれることは承知しつつ、あえてこのブログに書いてみることにした。何かを無性に解説したくなるというのは、もはや一種の職業病なのではないかと思う。興味のない人、ネタバレが嫌な人はスルー推奨です。

ココロコネクト』における感情伝導

 『ココロコネクト』という作品のキモは、「ふうせんかずら」なる正体不明の存在が登場し、文化研究部のメンバーたちに様々な心理実験(?)を仕掛けてくることにある。未知の存在がなぜ一介の高校生相手にそんな実験を仕掛けてくるのかはよく分からない。視聴者に求められるのは、「ふうせんかずら」の正体に思いを巡らすことではなく、とりあえずそういう設定を受け入れたうえで高校生たちの心の動揺を楽しむという態度である。

 14話から17話では「感情伝導」という実験(?)が仕掛けられる。文化研究部のうちの誰かが感じたことが他のメンバーにも勝手に伝わってしまうという現象だ。いつ、どのようなタイミングで生じるのか、誰の感情が誰に伝わるのかはランダムだが、感情を発した側は誰にそれが伝わったのかが分かる。要するに、内心では思っていたとしても相手には伝えたくないと考えていることまで伝わってしまうというやっかいな現象である。

 物語中、感情伝導でもっともダメージを受けるのが永瀬伊織という女の子である。もともと伊織は明るく、周囲を元気にするようなキャラクターとして認識されていた。ところが、この現象によって伊織が話していることと内心で考えていることとのズレが明らかになる。要するに、キャラを「作っている」ことが暴露されてしまうのである。

 それによって伊織はもともと感じていた「周囲が認識するわたし」と「ほんとうのわたし(=暗いし冷めてるわたし)」とのズレに耐えられなくなる。結果、後者を一気に表出させてしまい、周囲との人間関係を急激に悪化させることになる。文化研究部の他のメンバーはなんとかして伊織を元に戻そうとするのだが、彼女はそれに押し付けがましさを感じてしまい、さらに反発を強めていく。以上がストーリーの大まかな流れである。

「ほんとうのわたし」とは何か

 まず考えたいのが、伊織が認識している「ほんとうのわたし(=暗いし冷めてるわたし)」が本当の伊織なのかという問題である。

 心理学でよく用いられる「ジョハリの窓」というマトリックスでは、自己は4つに分割される。「Ⅰ. 開放の窓」は自分も他人も知っている自己、「Ⅱ.盲点の窓」は他人は知っているが自分は知らない自己、「Ⅲ.秘密の窓」は自分だけが知っている自己、「Ⅳ.未知の窓」は自分も他人も気づいていない自己を指す。

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(出典)ジョハリの窓 - Wikipedia

 石川准さんの『アイデンティティ・ゲーム』(新評論、1992年)という著作によれば、アンケート調査をすると約6割の回答者が「Ⅲ.秘密の窓」を本当の自己だと考える傾向にあるのだという。ぼくも授業で何度か尋ねてみたことがあるが、確かに「Ⅲ. 秘密の窓」が本当の自己だと考えるという受講生がもっとも多い。

 『ココロコネクト』に話を戻すと、伊織も感情伝導以前には他人に隠していた「暗いし冷めてるわたし」を「ほんとうのわたし」だと認識しており、その6割に含まれると考えてよい。

 ところで、なぜ「秘密の窓」を他人から隠す必要があるのだろうか。言うまでもなく、他人に知られては困るような「わたし」だからだ。つまり、人は自らの本質をネガティブなものだと認識する傾向にあると言ってよい(前掲書)。伊織もまた、自らのネガティブな本質が感情伝導によって隠しきれなくなったと判断し、それに正直にならざるをえないと考えたのである。

 しかし、他人に隠しているからといって、それを自分の本質だと考える必要は必ずしもない。

 実際、石川さんによると、年齢が上がるにしたがって「Ⅱ. 盲点の窓」こそが自分の本質だと考える人が増える。結局のところ自分のことは自分では評価できないという人格的成熟がそうさせるのではないかというのだ。この観点からすれば、周囲の人間が理解している伊織像(=明るくて周囲を元気にするわたし)こそが本当の伊織であった可能性も出てくる。

 もっとも、とりわけ若い時期において人格は使い分けられることが多く、状況いかんによって様々に変化しうる。つまり、何が本当の伊織なのかという問い自体が間違っているとも言える。とはいえ、伊織が「暗いし冷めてるわたし」だけを本当の自己として規定し、それが命じる通りにふるまい続けるなら、やがて伊織の本質もそのようになっていく可能性は高い。

 だが、結局のところそうはならず、伊織は救済される。それはなぜか。

業績と帰属による自己肯定感

 その問いについて論じるまえに、伊織が周囲からの干渉をなぜ「押しつけ」として感じてしまったのかという問題について述べておきたい。

 人が自らの存在を肯定するための根拠は、大雑把に言って「業績」と「帰属」という二種類に大別することができる。

 業績というのは、要するにその人が成し遂げた「何か」である。難しい試験に合格した、大きな契約をまとめた、たくさんの外国語を話せる…等々の業績は、「自分には価値がある」と信じるための重要な根拠になる。業績というと大げさな感じもするが、ここでは自己の能力や努力によって勝ち取られたもの全般を業績と呼ぶことにしたい。

 業績に基づく自己の肯定は、能力を示し続けられる限りにおいてのみ有効である。スポーツ選手が自らの能力に誇りを抱いていたとしても、能力の衰えはその誇りを奪ってしまいかねない。業績のみに基づく自己肯定は結構疲れるのだ。

 他方、帰属に基づく自己の肯定は、親子関係や地縁、国籍などの「生まれもっての属性」に根拠を持つ。つまり、業績に関係なく「あるがままの自分」を肯定してくれるものだ。親子関係の場合、勉強やスポーツができようができまいが、自分が親の子どもであるという事実そのものによって愛されるという感覚、それが帰属に基づく自己肯定感を育む。

 人格的な独立性が高まる思春期以降になると、帰属に基づく自己肯定感だけでは満足できなくなり、業績に基づく自己肯定が追求されることが多くなる。親から愛されるだけでは物足りなくなり、恋愛をしたい(=自らの魅力(一種の業績)によって愛されたい)という感覚が強まるのはその一例だ。とはいえ、それでも帰属に基づく自己肯定はその土台として機能し続ける。

 ここでようやく『ココロコネクト』の話に戻る。伊織は、元気なキャラを演じるという業績を出し続ける限りにおいてのみ周囲は自分を好いてくれると考えている。ところが、感情伝導によってもはやそのキャラを演じることができなくなってしまった。したがって、それを演じ続け、業績を出し続けることを強いてくる周囲に伊織が「押しつけ」と感じるのは当然だろう。

 その一方で、元気なキャラを演じられなくなったことで伊織の自我は大きく動揺する。それは伊織の自己肯定感が業績的な根拠にのみ依存してきたからだ。伊織はネガティブな自己の本質を誰かが肯定してくれるとは考えていない。帰属に基づく自己肯定感を持つことができないのだ。

 伊織がそのような心理状況にある背景には、彼女が育った家庭環境に原因があると考えられる。「良い子」である限りにおいて承認されるという状況で育ったがゆえに、あるがままの自分では許されないという感覚が非常に強くあるのだろう。事実、物語中に登場する子ども時代の伊織は「ものすごく良い子」である。

伊織とアスカを隔てたもの

 ここで思い出されるのが、旧版の『新世紀エヴァンゲリオン』に登場するアスカというキャラクターだ。知っている人は多いだろうが、悲惨な家庭環境に育ちながらも、14歳にして大学を卒業し、多言語を駆使する天才肌の少女である。エヴァンゲリオンに搭乗することに非常なプライドを有しているが、やがてパイロットとしての才能において主人公シンジに見劣りすることが明らかになっていき、物語の終盤では精神を病んでしまう。伊織と同様、アスカも帰属に基づく自己肯定感を欠如させている。それをエヴァンゲリオンのパイロットとしての業績によって補っているのである。

 しかし、『エヴァンゲリオン』のアスカが心を病んでいくのに対し、『ココロコネクト』の伊織は最後には立ち直る。この両者を隔てたものは何か。

 自尊心をひどく傷つけられたアスカが同級生のヒカリという女の子の家に転がり込むシーンがある(23話)。「私の価値なんてなくなったの」と嘆くアスカに対して、ヒカリは「わたしはアスカがどうしたっていいと思うし、何も言わないわ。アスカはよくやったもの」と言う。それを聞いても、アスカはただ泣くばかりである。

 他方、『ココロコネクト』の文化同好会のメンバーは伊織との対決シーンにおいて、彼女に向かって「自分たちの過度な期待に応える必要などない」「てめえの人生だろうが、勝手に好きなように生きとけ」「永瀬(伊織)の理想の自分もそうじゃない部分も知ったうえで、今度は本当の永瀬に届けるために言う。俺はそれでも永瀬伊織のことが好きだぞ」というメッセージを伝える(16話)。

 『エヴァンゲリオン』でのヒカリの言葉はあくまで業績に基づく肯定(アスカはよくやった)の域を出ていない。だからこそアスカに救いは来なかった。他方、『ココロコネクト』のメッセージは文化研究部の人間関係が業績ではなく帰属に基づくこと、そして「あるがままの伊織」を自分たちが受け入れることを伊織に伝えるものだ。

 だからこそ伊織は、「暗いし冷めてるわたし」をも取り込むかたちで自己を再構築することができたのではないだろうか。ぼくとしては最後のセリフに「さっさと爆発しろ」という感想しか出てこないのだが。

 いまから20年近く前、『エヴァンゲリオン』を初めてテレビで見たときから、このシーンでヒカリがもっと違う、「あるがままのアスカ」を肯定するようなメッセージを伝えることができていたなら物語はもう少し違った展開を見せたのではないかと考えてきた。その意味で、伊織は救われたアスカなのかもしれないと思う。

「人生の目的」は語らないほうがいい

 いまからちょうど20年前、ぼくが大学2年生だったころの話だ。

 やっと大学に入学できたという高揚感はとうの昔に冷め、ぼくはいかにも若者らしい悩みを抱えていた。「自分が生きている意味がわからない」というやつだ。

 周囲を見渡すと、ぼくよりも何かに秀でている連中ばかりに思えた。ぼくには何の特技もなく、特に秀でているところもない。それどころか、友人関係すらもうまく営むことができず、どこか浮いた存在になってしまっていた。一人暮らしをしていた自宅に少しの間だがひきこもり、「生きている価値あんのかな…」と悩んでいた時期もある。

 いろいろあって、その悩みは大学3年生になると和らぐのだが、それでも時折、自己懐疑は襲ってきた。「自分のやっている学問に意味はあるのか」「何の役にも立たない、誰かを喜ばせるわけでもない研究を続けてもよいのか」存在価値のあやふやな文系の学問をずっと続けていると、そういう思いに取り憑かれる人は少なくないのではないかと思う。大学に職を得た今ですら、これからのデジタルメディアの時代にぼくのような古色蒼然としたメディア研究など不要ではないかと考えたりもする。

 その一方で、歳をとっていろいろな責任を背負うようになると、自分の存在価値についてあまり悩まなくなることも確かだ。特に子どもが出来るとそうなる。もし自分がいなくなってしまったら、目の前の子どもたちを確実に困らせることになるからだ。やはり成人するまでは自分の責任で育てないと、という気持ちになる。生きている意味について深く考えることの必要性は乏しい。

 しかし、もしかするとこれは、子どもたちに願望を転嫁しているだけなのかもしれない。自分が見つけることが出来なかった人生の意味を、子どもたちはもしかしたら見つけることができるかもしれない。そこに期待をかけることで、自分の生きる意味を問うことをペンディングしているだけではないか。ドラクエ5風に言えば、自分自身が勇者であることを諦め、勇者の父でありたいと望んでいると言えるかもしれない。

 とはいえ、この歳になってみて、漠然とはしているものの、子ども以外にも自分が生きている意味のようなものはあるような気もしている。ただ、それをここに書くことはしない。

 おそらく、人生の目的のようなプライベートな思いは、言葉にしないほうがいい。言葉にしてしまうと、それが音声であれ、書いたものであれ、他人がコピーできるものになるからだ。そうなると唯一無二の思いであったはずのものが急に安っぽくなってしまう。たとえば、本当に誰かを愛し、その人のために生きると決意していたとしても、それを言葉にしてしまうと、どこにでもある、誰もが語ることのできる複製可能な感情になってしまう。

 だから、「人生の目的」は誰にも語らないほうがいい。それは心の奥底にしまわれていることで、力を与えてくれるのではないかと思う。

アジールとしての学校

 若い人たちによく見られているアニメ作品には「アジール」が登場することが多い。

 アジールというのは、外部から隔絶されていて、そのなかでは外部とは別の秩序が成立している空間のことを指す。アニメ作品における典型的なアジールは部室だ。たとえば、『涼宮ハルヒの憂鬱』のSOS団、『けいおん!』の軽音部、『氷菓』の古典部、『ココロコネクト』の文研部などの部室がそれにあたる。

 たまに部活の顧問が入ってくる程度で、基本的に部室には学生しかいない。だから、外部社会のさまざまな常識が遮断され、独特のルールがそこを支配する。『涼宮…』がもっとも典型的で、外部では成立しようのない涼宮ハルヒの絶対権力によって部室は統治される。

 若い人向けの作品にこうしたアジールが登場する理由はよくわかる。精神的には親から自立しつつも、社会的、経済的にはまだまだ親の庇護のもとにある年齢層の若者が、かりそめの自立を体験する場としてそのようなアジールはうってつけだからだ。

 自宅だと親の存在がどうしても意識されてしまう。かといって一人暮らしの部屋では人(特に異性)が集まるという設定にしづらい。ファミレスや喫茶店では、客である限り私物を置くなどして空間に手を加えることができない。これらの要因から、学校の部室というのはアジールの設定として最適の場所なのである。

 もちろん、アニメに登場するアジールは部室とは限らない。部室以外のアジールとしては『STEINS;GATE』の「未来ガジェット研究所」がそうだし、『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない』の秘密基地などが思い浮かぶ。

 だが、それらのアジールにはどこか設定として無理がある。『STEINS…』の場合、バイトもろくにしていないさそうな大学一年生が秋葉原の雑居ビルの家賃を支払い続けるというのはリアリティに乏しい。『あの日…』の場合、秘密基地の電気代はいったい誰が払っているのかという疑問が浮かぶ。学校の外にアジールを設定しようとすると、なんとなく設定にぎこちなさが生まれるのだ。

 その意味では、アニメ作品というフィクションでも、そして現実においても若者たちのアジールとして最適な場は学校である。じっさい、ぼく自身の経験を振り返ってみても、学生時代のアジールは学校だった。

 大学1、2年生のときにはサークルで使っていた音楽練習室(音練)がそうだった。授業の合間に音練を覗くと、たいてい何人かがたむろしていて、だらだらと雑談をしたり、どこかに遊びに行ったりする。ぼくが通っていた大学は3年生以降になると別キャンパスになるので、上級生があまりいないのも嬉しかった。なので、大学3年生になって都心のキャンパスに移ってからは、大学に急に居場所がなくなったような、そんな感覚をたびたび覚えた。

 大学院生になってからは、共同研究スベースにある談話室がアジールだった。研究に疲れると、友人を誘って談話室で延々と雑談を交わす。本当にどうでも良い話のこともあれば、学術的な話や政治的な話題になることもある。歴史認識問題をめぐって4、5時間ぐらい議論をしていたこともある。

 読み慣れない英語の論文や、何を言っているのかさっぱり分からない日本語文献に四苦八苦させられてはいたが、いまでも大学院生時代の談話室での時間は本当に楽しかったと思える。そういえば、ペプシコーラとコカコーラを味だけで区別することは可能かというブラインドテストをやったのもあの談話室だった。

 このように、少なからぬ学生にとって学校のなかの「隙間」はアジールとして機能してきたのではないかと思う。だが、視点を変えて学校を運営する側から見ると、こうしたアジールは紛れもないリスク要因だ。なにせ外部からの視線が入らないので、不祥事の温床になりかねないのだ。

 過激な政治運動の拠点になったり、火気使用、飲酒、性行為等、学校という場では好ましくない行為が行われる可能性がどうしても出てくる。『涼宮ハルヒ…』では部室内で鍋をやるシーンが出てくるが、ぼくが通っていた高校で、部室で鍋をやったことが発覚したある部は部室の使用が禁止された。

 しかも、最近では大学の都心回帰が続いており、部活やサークルに独立した空間を与えることが難しくなっている。地価の高い都心の、高層ビルのようなキャンパスでは学生のための隙間的な場所をなかなか用意できないのだ(1)。

 こうした学校側の観点からすれば、授業には積極的に出席してもらい、授業が終われば図書館に行くか帰宅するかして、学生にあまりキャンパス内に意味なくたむろしてほしくないというのが正直なところではないだろうか。私物を持ち込むことなく、空間に手を加えるなどもってのほかで、学校に滞留もせず後腐れなく卒業していってほしいという感覚かもしれない。

 加えて、アジールの引力というのはなかなかに強力で、いったん中に入ると外に出るのが面倒くさくなるという性質を持っている。このようなアジールに魂を引かれた者たちは、ずっと学校にいるのになぜか授業には出ないということになりがちだ。学生の学力を何が何でも向上させるという目的からすれば、そのようなアジールなど無用の長物ということになるだろう。

 けれども、アニメ作品で部室のようなアジールが幾度となく描かれ続けるのを見ると、学校に何らかの居場所を求めるニーズの存在は否定できないだろう。ぼくの勤務先のキャンパスには音楽系サークルの溜まり場となっている薄暗い場所がある。学校内に人影がまばらな時間帯であっても、学生の姿を見る可能性がもっとも高いのはそこなのだ。

 そこにたむろしている学生の留年率はかなり高いと聞くし、キャンパスの管理という面ではいろいろと問題がありそうな雰囲気もある。「グローバル人材育成」とか最近の教育トレンドからは全く無縁に見える場所だ。

 しかし、教員としてこういうことを書くのはどうかと思うが、彼らがあそこで過ごす一見すると無為な時間を否定したくはない。後になって振り返ったときに、社会や経済の論理からは切り離されたアジールで過ごした時間は、それなりに貴重なものになるという気もするからだ。たとえそれが、まったく生産性のない時間であったとしても。

 なので、高度に管理された無機的な都市型キャンパスの大学ばかりが増えていくのにはやはり寂しさを覚える。学問だけではなくアジールもまた提供する。それが大学のあるべき姿ではないかとも思うからだ。

 もちろん、アジールと言えど、学校内で不祥事を起こされるのも困るので、学生諸君にはそれなりに自制心を持ってだらだらしてほしいわけだが。

脚注

(1)大学サークルの部室を舞台にしたアニメ作品としては『げんしけん』が思い浮かぶが、この作品の原作者の出身は筑波大学、アニメのロケハンが行われたのは中央大学の多摩キャンパスである。いずれも広大なキャンパスを誇る大学だというのはおそらく偶然ではないだろう。

フエルテベントゥラ紀行(3)

フエルテベントゥラ紀行(1)
フエルテベントゥラ紀行(2)

 誰も読んでいないんじゃないかというこの紀行文、なんと前回のエントリにスターが付いた。少なくとも一人は読者がいるわけだ。なので、たとえ読者が少なくともとにかく完結させねばなるまい。

 さて前回書いたとおり、周囲の圧倒的多数が白人という超アウェイな環境のなか、フエルテベントゥラ島でまったりとする我が家。

 しかし、さすがにずっとホテルにいるのもつまらない。なので、フエルテベントゥラ島にある動物園にも出かけることにした。オアシスパークという動物園なのだが、Google先生に訊いてみると、日本語サイトでこの施設に関する情報は存在しないようだ。無論、それはニーズがないということとほぼ同義なのだが、ともあれ我が家はこの動物園に行ったのである。さあ読者諸君、君たちはこれからおそらく日本語で唯一のオアシスパークに関する記述を目にするのだ!!

 ……さて、このオアシスパークの最大の売りはなにか。それはラクダに乗れることである。逆に言えば、ラクダに乗らないのであれば、無理をしてこの動物園に行く必要はないかもしれない。

 ラクダというのは本当に力持ちで、我が家四人全員が一頭のラクダによって運搬された。正確な合計体重を書くといろいろと差し障りがありそうなので伏せるが、少なくとも150kgを超えていたことは確実である。全所要時間は30分ぐらいだろうか。ラクダの背中に揺られながら、見晴しの良い丘を登る。かなり揺れるが、酔うような揺れ方ではないので、風景を十分に楽しむことができる。

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 ラクダから降りると、今度は園内を散策。隣で娘が「あたし、動物園あんまり好きじゃないんだよねー」などとガッカリ発言をするのを聞きながら、それでも動物のショーを見てまわる。インコ、爬虫類、タカ、アシカなどのショーが楽しめる。

 これらのなかではタカのショーだけがかなり離れた高台で行われる。園内バスで移動すると、さきほど爬虫類ショーで楽しげにヘビやワニと戯れていたお姉さんが、今度はタカのショーにも登場し、いろいろと芸を披露していた。なんとなく人件費節減を思わせる悲しい瞬間である。

 タカのショーが終わったあとは、園内のレストランに入った。すると、さきほどのショーに連続して出場していたお姉さんが一人、浮かない顔で食事をしているではないか。きっとこのレストランの料理にも飽き飽きなのだろうが、園の近くに食事をできそうな施設はない。

 「あのお姉さん、この島の出身かな」とぼく。
 「そうとも限らないんじゃない。動物の仕事がしたくて島の外から来たのかも」と奥さん。
 「たしかに、動物関係の仕事とか少なそうだもんね。でも、ずっとこの島で仕事を続けるのかな。一生続けるにはしんどそうな仕事じゃない?」などと、お姉さんの今後の人生を勝手に心配し始めるわれわれであった。余計なお世話であることは承知している。
 
 こうして、オアシスパークのすべてのショーを見終えたわれわれは、バスでホテルへと戻る。さすがに帰路ではみな疲れたのか、奥さんや子どもたちは寝てしまい、ぼくは窓の外を眺めていた。人が住んでいるところやオアシスパークの周辺は無理やり緑化されているが、基本的にはほぼ砂漠の島である。草木もわずかな荒野が広がり、そのなかに遥か以前に放棄されたような廃墟があるのを見ると、何とも言えない哀愁を感じるのだった。

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 バスでの帰路もそうだったが、子連れ旅行において親が自分の時間を過ごせるのは、基本的に子どもが寝ている間だけである。我が家の場合、奥さんにも長時間睡眠が必要になるため、深夜あるいは早朝は一人で過ごすことができる。

 朝、まだ子どもたちや奥さんが寝ているあいだに起床したぼくは、ホテルの部屋の隅っこのほうでiPadでダウンロードした書籍を読んでいた。せっかくの旅行なので、学術書ばかりを読むのも疲れる。そこで、今回の旅行では、樋口直哉『大人ドロップ』と柴崎友香『私がいなかった街で』を読むことにした。

 『大人ドロップ』は高校生の人間関係や恋愛模様を描いた作品で、さいきんになって映画化されている。40歳を過ぎたオッサンが高校生の恋愛ものを読むというのはいかがなものかとも思うのだが、それはそれで楽しめた。読後感は悪くないが、まあなんというか「リア充爆発しろ」という感じだろうか。

 『私がいなかった街で』は、離婚したばかりの女性を主人公とする作品。正直、最初のほうはなかなかページが進まなかったのだが、途中からは小説としての力を感じさせる作品だった。ぼくが思うに、この小説は実にメディア的だと思う。

 作中における主人公の行動範囲はきわめて限定的だ。途中で大阪に帰省するシーンはあれども、基本的には現在の居住地である東京の自宅と職場を往復するだけだ。にもかかわらず、主人公の意識は時間と空間を越えて遠い外国の戦場や、あるいは祖父がかつて過ごした原爆投下直前の広島、あるいは主人公に代わって友人が体験する大阪での出来事へと向かう。時間的、空間的に隔たった場所と主人公とをつなぐのは「メディア」だ。ニュース映像やSNS、あるいは友人といったメディアを介して「私がいなかった街」を主人公はさまよう。

わたしが今まで見てきた、すべての映像に、撮影した人も放送した人もいる。わたしはきっと、彼らの目を通して、現実の世界を見ている。画像だけじゃなくて、小説でも映画でも、誰かが見た世界を通じて、この世界のことを見る。
(出典)柴崎友香『私がいなかった街で』新潮社。

 ただし、それはあくまでメディアを介して、の話だ。実際に他者の視点を完全に自分のものにできるわけではない。そのような思い込みは独善を生む。他者はどこまでいっても他者だということを忘れてはならない。しかし、だからと言って他者はしょせん他人だと切り捨てる必要もない。人は他者を完全に知ることも、受け入れることもできないが、それでも近づくことはできる。

 わたしはこのおばあちゃんみたいな気持ちも、一生経験することがない。わたしのこれからの時間に、そんなに深い感動は訪れはしない。なぜそう断定してしまうのか自分でもわからないけど、そう思って、でもそれはむなしいことともかなしいこととも感じなかった。
 ずっとわからないかもしれないけど、それでも、わたしは、自分が今生きている世界のどこかに死ぬほど美しい瞬間や、長い人生の経験をかみしめて生きている人がいることを、少しでも知ることができるし、いつか、もしかしたら、そういう瞬間に辿り着くことがあるかもしれないと、思い続けることができる。なくてもいいから、絶対に、そう思い続けたい。
(出典)柴崎友香、前掲書。

 他者との完全なる相互理解の可能性を否定しながらも、その可能性を信じる。こうした意味でこの小説は、他者との安直な一体化と、他者へのシニシズムの両方を拒絶するというきわめて現代的なテーマを扱っていると言うことができる。

 ところで、この小説の作者である柴崎友香さんは、ぼくと同じ大阪の市岡高校の出身で、なおかつ同期生である。残念ながら柴崎さんと面識はないものの、作中で高校時代の大阪の描写が出てきたときには苦笑を禁じ得なかった。柴崎さんの小説を読むのは今回が初めてだったが、なかなかに楽しめたので、今後も折に触れて読んでいきたいと思う。
 
 さて、途中から紀行文なのか読書感想文なのか分からなくなってしまったが、とりあえずフエルテベントゥラ紀行はこれでおしまいである。砂浜でバベルの塔もどきを作った話とか、ホテルのアジア料理店で酷い目に遭った話も書こうかと思ったが、まあもういいだろう。

 ただ、最後に一つ教訓を述べておくと、海外でアジア料理店に入るときには、できるだけ特定の国の料理に特化した店に入るべきだ。経験的に言って、日本料理、中国料理、タイ料理など「アジア」であれば何でもメニューに載せている店は要注意である。そういう店で間違えても寿司を頼んだりしてはいけないと思う。まあ、日本料理と銘打っていても、酷い店は酷いのだが。

フエルテベントゥラ紀行(2)

フエルテベントゥラ紀行(1)

 ブログは「テーマを決めて書け」とよく言われる。そういう意味では、普段、堅苦しい話ばかり書いているこのブログでお気楽な紀行文を書くというのは、コンセプトとして間違っている。間違ってはいるのだが、(1)を書いてしまった以上、(2)も書かざるをえないのである。

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 前回はロンドンのガトウィック空港からフエルテベントゥラ島行きの飛行機に乗り込むまでを書いたわけだが、機内に入って驚いたことがある。それは、白人の比率が異様に高い、ということだ。

 イギリス発の飛行機なんだから当たり前だと思われる人もいるかもしれない。だが、多民族社会であるロンドンで暮らしていると、白人ばかりという場面に遭遇することは意外に少ない。もちろん、そういう空間もどこかにはあるのだろうが、地下鉄であれ、大学図書館であれ、ショッピングモールであれ、普段ぼくが行くようなところではいろいろな肌の色の人たちが混在しているのが普通である。

 機内が白人ばかりの理由としてまず思い浮かぶのは経済的な理由だ。だが、少なくとも昨今では有色系でもそれなりに余裕のある生活をしている人たちは決して少なくない。もちろんイギリスは貧富の格差の大きな社会だが、貧富の境界線は人種や民族のそれとあまり重ならないと言われる[1]。

 だとすれば、考えられるのは文化的、宗教的な理由だろう。キリスト教の祝日であるイースターを他宗教の人たちは休まないのかとも思ったのだが、公的な休日なのでその線は薄いように思う。だとすれば、イギリスに数多くの存在するムスリムシーク教徒の人たちと、女性の肌の露出が大きくなりがちなリゾート地との相性の問題ではないかという気がしてくる。実際、フエルテベントゥラ島に到着後も、観光客の圧倒的多数はイギリスやドイツから来たであろう白人層だった。というわけで、「欧米リゾート地における人種問題」というテーマで論文を書ける気がしてきたのだが、ぼくはやらないので興味のある人は是非やってください。

 そういう無駄な思考をしつつ、子どもたちが3DSで『星のカービィ』に興じているのを横目で見ながら、ウェブ社会についての本を読んでいるうちに、飛行機はフエルテベントゥラ島に到着した。

 飛行機から降りると、懐かしい感じの空気が押し寄せてきた。湿度が高いのだ。日本の夏を思い出させる。

 前回も書いた通り、フエルテベントゥラ島はスペイン領である。なので、ロンドンからの到着便の場合、パスポートチェックがある。だが、イギリス国籍の人たちはパスポートをちらっと見せただけでどんどん入国していく。さすがEUに加盟しているだけのことはある。

 ところが、ぼくら非EU国民はそうはいかない。出入国カードに記入しなくてはならないからだ。普通は飛行機のなかで配るものだと思うが、おそらく記入する必要のある乗客が極端に少ないのでやらないのだろう。実際、ぼくら以外にパスポートゲートの周囲でカードに記入していのは2、3人だけだった。イギリスではEU脱退に関する国民投票を行うか否かで政党間の対応が分かれているが、こういう場面に遭遇すると、EUも悪いことばかりでもないのではないかとも思う。

 ともあれ、パスポートチェックを終えたぼくらは、空港内でATMを探しまわった挙句、ようやくいくばくかのユーロを手に入れ、ホテルへと向かう。事前にグーグルマップで見ていたかぎり、空港からホテルまでは近そうに見えたので、万が一の時には歩くのもありかな、と思っていた。が、いざタクシーに乗ってみると、「近い」というのはとんでもない勘違いであったことに気づく。とても子連れで歩けるような距離ではない。地図の縮尺には気を付けねばならん、と改めて思ったのであった。

 というわけで、フエルテベントゥラ島での滞在が始まった。とりあえずホテルでの滞在については書くことは少ない。特筆すべきことが何もなかったからだ。

 フットワークの重い我々は、ホテルのプールサイドでのんびりと寝転がって過ごす。あるいは、ホテルの近くの砂浜でだらだらと遊ぶだけである。

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 プールで泳いでいるのは、たいていが子どもである。その親たちはと言えば、われわれ同様、ただごろごろしているだけである。子どもははしゃぎ、親はだらだらする。正しい休日の過ごし方ではないか。無論、子どもがすべてプールで遊んでいるわけではない。プールサイドに寝転がりながらiPadの動画を見てニヤニヤしている小太りの男の子は正しくインドア系男子であり、ある意味では微笑ましい。

 しかし、プールサイドで寝転んでいるだけでも、日差しは強烈であり、肌がじりじりと焼けてくるのがわかる。そのなかでも頑張って、ぼくはウェブ社会についての本を読む。後半になると論理の飛躍が目立つようになり、イライラしたりもするが、その憤りをぶつける相手がいない。しょうがないので誰にも聞こえないように「これとそれは全然別の話だろうが」と小さく呟いてみる。不毛だ。

 これを書いていたら思い出してまたイライラしてきたので、とりあえずこのエントリはここで終わることにする。イライライライラ。

 さて、このフエルテベントゥラ紀行、あと1回ぐらいは続きそうである。それにしても誰か読んでいる人いるのかね?この文章。

脚注

[1]デイヴィッド・バーン、深井英喜ほか訳(2010)『社会的排除とは何か』こぶし書房、p.231。

フエルテベントゥラ紀行(1)

 子育て中の人間にとって、紀行文は非常に相性が悪い。

 なぜかと言えば、むろん子育て中の人間はフットワークがものすごく重いからだ。

 たとえば、紀行文と言われて最初にぼくが思い出すのは、沢木耕太郎さんの『深夜特急』だ。香港からロンドンまでという長大な距離を乗合バスで移動するというこの旅の記録は、多くの若者に影響を与えてきたと言われる。

 しかし、言うまでもなく子連れの人間にこのような旅はまず無理だ。ユーラシア大陸の壮大な風景をバスから眺めつつ、沢木さんなら深みのある思索を始めるであろうまさにその瞬間、隣の我が子からは「つまんない」「飽きた」「帰りたい」という呪詛のようなつぶやきが始まる。最悪のパターンとしては「気持ち悪い」「トイレに行きたい」という発言が続くのである。もし沢木さんが子連れだったとしたら、香港から出られなかった可能性は高い。

 というわけで、子育て中のぼくにとっては非常に書きづらいジャンルであるのだが、今回は紀行文である。いま住んでいるロンドンを数日離れただけの旅行であり、本来であれば紀行文と呼ぶのもおこがましい代物であることは最初に告白しなくてはならない。ともあれ、今回の旅の目的地は、フエルテベントゥラ島である。(下の写真はラクダで移動中に撮影した島の風景)

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 在外研究でロンドンに来た当初から一つ目標にしていたのは、日本からだとアクセスの悪い場所に旅行することであった。そこでまず考えたのが、カリブ海に浮かぶ島々である。イギリスではカリブ海のリゾートは人気があり、新聞の広告にもよく載っている。が、調べてみたところ、飛行機代が高い。いや、一人で行くのであれば何とかなるのだが、家族四人で行くとなると目眩がしそうな値段になる。

 カリブ海を諦めて、次に目をつけたのがカナリア諸島である。アフリカ大陸の東、モロッコの沖合に浮かぶスペイン領カナリア諸島はイギリス人やドイツ人に人気のリゾート地である。しかもカリブ海の島々と比べれば、飛行機代もかなり安い。

 そこでカナリア諸島に焦点を絞ったのだが、それぞれの島がかなり大きく、旅の条件も違う。カナリア諸島のなかでもっともメジャーなのはおそらくテネリフェ島だが、これも予算の関係で結局はフエルテベントゥラ島に落ち着いた。人口は約7万人、カナリア諸島のなかでもアフリカ大陸にかなり近い島だ。

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 こうして、4月の中旬、イースター休暇を利用して我が家はフエルテベントゥラ島に旅立つことになった。日本では普通に平日であり、ぼくがのんびりリゾートしている間にも我が同僚の方々が普通に勤務なされていることを考えると胸が痛む。しかしイギリスにはゴールデンウィークなんてものはないので、その間はきちんと仕事をすることにして良心の呵責を抑える。あと、行きと帰りの飛行機のなかではネットワーク・コミュニケーションの本と国際報道に関する本を真面目に読んでいたことも付け加えておきたい。

 さて、ロンドンからフエルテベントゥラ島へのフライトは約4時間である。このような長距離移動に際して、子育て中の人間がまず考えるべきは、道中どうやって子どもの退屈を紛らわせるか、である。子どもを飛行機に乗せるときには睡眠薬を飲ませろと主張する人が出てくる昨今、子育てファミリーに対する世間のまなざしは厳しい。親としては病気でもないのに子どもに投薬することはできれば避けたいわけで、かといって対策を怠れば飛行機の通路を走り回ったり、ふざけて大声を発したりもしかねない。

 日本にいたときには、新幹線などに乗るさいにはポータブルのDVDプレイヤー(ヘッドホン装備)とツタヤで借りたDVDが必須アイテムだった。これで『ドラえもん』の映画でも見せておけば、とりあえず数時間はもつ。だが、イギリスにいるとこのようなテクニックは使えない。

 そこで、出発当日の朝、ぼくは内緒でニンテンドー3DSに『星のカービィ トリプルデラックス』をダウンロードした。これなら上の子も下の子も両方遊べるはずだ。加えて、iPadにも無料のゲームを数本ダウンロードしておく。

 こうして旅の準備も終え、我が家はフエルテベントゥラ島に旅立った。まずはガトウィック空港への移動だが、ロンドンでの移動はさすがに慣れているので、大きなトラブルはない。ガトウィック空港に到着後、ぼくがこっそり『星のカービィ』を買ったことが奥さんにバレてしまい、難詰されているうちに搭乗時間もすぐにやってきた。

 今回の往路では、Easy Jetという格安サービスが売りの航空会社を利用した。機内食などには追加料金がかかるが、なにせ安い。登場直前に奥さんに料金を伝えたところ「聞かなければよかった」と不安気な顔で言っていた。かくして不安気な奥さんとぼくら家族を乗せ、飛行機は無事にガトウィック空港を離陸したのであった。

 というところで、フエルテベントゥラ島に到着する前にこの文章は終わるのであった。続く!
 …と思う。たぶん…