擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

伊織とアスカ

 40歳をとう過ぎたオッサンがこんな話をブログに書くというのはいかがなものだろうか。そう悩みつつも書かずにはいられない。それが今回のエントリである。

 『ココロコネクト』というアニメがある。原作はライトノベルでアニメは2012年7月から9月にかけて放送された。男子高校生2人、女子高校生3人をメンバーとする文化研究部なるグループが登場し、その唾棄すべきリア充的展開が数十年も前の不毛な高校時代をぼくに想起させるというトラウマ的作品である。いやまあ、面白いことは面白いのだが、ぼくのようなオッサンが熱く語る作品ではないと思う。

 …という、どうでもいい感想は措くとして、先日、その14話から17話を見るという機会を得た。それは実に社会学的に解説してみたくなるエピソードなのだが、残念なことにその解説を聞いてくれる人がぼくの周囲にはいないし、授業でも取り上げづらい。そこで、いつものテーマとは大きくずれることは承知しつつ、あえてこのブログに書いてみることにした。何かを無性に解説したくなるというのは、もはや一種の職業病なのではないかと思う。興味のない人、ネタバレが嫌な人はスルー推奨です。

ココロコネクト』における感情伝導

 『ココロコネクト』という作品のキモは、「ふうせんかずら」なる正体不明の存在が登場し、文化研究部のメンバーたちに様々な心理実験(?)を仕掛けてくることにある。未知の存在がなぜ一介の高校生相手にそんな実験を仕掛けてくるのかはよく分からない。視聴者に求められるのは、「ふうせんかずら」の正体に思いを巡らすことではなく、とりあえずそういう設定を受け入れたうえで高校生たちの心の動揺を楽しむという態度である。

 14話から17話では「感情伝導」という実験(?)が仕掛けられる。文化研究部のうちの誰かが感じたことが他のメンバーにも勝手に伝わってしまうという現象だ。いつ、どのようなタイミングで生じるのか、誰の感情が誰に伝わるのかはランダムだが、感情を発した側は誰にそれが伝わったのかが分かる。要するに、内心では思っていたとしても相手には伝えたくないと考えていることまで伝わってしまうというやっかいな現象である。

 物語中、感情伝導でもっともダメージを受けるのが永瀬伊織という女の子である。もともと伊織は明るく、周囲を元気にするようなキャラクターとして認識されていた。ところが、この現象によって伊織が話していることと内心で考えていることとのズレが明らかになる。要するに、キャラを「作っている」ことが暴露されてしまうのである。

 それによって伊織はもともと感じていた「周囲が認識するわたし」と「ほんとうのわたし(=暗いし冷めてるわたし)」とのズレに耐えられなくなる。結果、後者を一気に表出させてしまい、周囲との人間関係を急激に悪化させることになる。文化研究部の他のメンバーはなんとかして伊織を元に戻そうとするのだが、彼女はそれに押し付けがましさを感じてしまい、さらに反発を強めていく。以上がストーリーの大まかな流れである。

「ほんとうのわたし」とは何か

 まず考えたいのが、伊織が認識している「ほんとうのわたし(=暗いし冷めてるわたし)」が本当の伊織なのかという問題である。

 心理学でよく用いられる「ジョハリの窓」というマトリックスでは、自己は4つに分割される。「Ⅰ. 開放の窓」は自分も他人も知っている自己、「Ⅱ.盲点の窓」は他人は知っているが自分は知らない自己、「Ⅲ.秘密の窓」は自分だけが知っている自己、「Ⅳ.未知の窓」は自分も他人も気づいていない自己を指す。

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(出典)ジョハリの窓 - Wikipedia

 石川准さんの『アイデンティティ・ゲーム』(新評論、1992年)という著作によれば、アンケート調査をすると約6割の回答者が「Ⅲ.秘密の窓」を本当の自己だと考える傾向にあるのだという。ぼくも授業で何度か尋ねてみたことがあるが、確かに「Ⅲ. 秘密の窓」が本当の自己だと考えるという受講生がもっとも多い。

 『ココロコネクト』に話を戻すと、伊織も感情伝導以前には他人に隠していた「暗いし冷めてるわたし」を「ほんとうのわたし」だと認識しており、その6割に含まれると考えてよい。

 ところで、なぜ「秘密の窓」を他人から隠す必要があるのだろうか。言うまでもなく、他人に知られては困るような「わたし」だからだ。つまり、人は自らの本質をネガティブなものだと認識する傾向にあると言ってよい(前掲書)。伊織もまた、自らのネガティブな本質が感情伝導によって隠しきれなくなったと判断し、それに正直にならざるをえないと考えたのである。

 しかし、他人に隠しているからといって、それを自分の本質だと考える必要は必ずしもない。

 実際、石川さんによると、年齢が上がるにしたがって「Ⅱ. 盲点の窓」こそが自分の本質だと考える人が増える。結局のところ自分のことは自分では評価できないという人格的成熟がそうさせるのではないかというのだ。この観点からすれば、周囲の人間が理解している伊織像(=明るくて周囲を元気にするわたし)こそが本当の伊織であった可能性も出てくる。

 もっとも、とりわけ若い時期において人格は使い分けられることが多く、状況いかんによって様々に変化しうる。つまり、何が本当の伊織なのかという問い自体が間違っているとも言える。とはいえ、伊織が「暗いし冷めてるわたし」だけを本当の自己として規定し、それが命じる通りにふるまい続けるなら、やがて伊織の本質もそのようになっていく可能性は高い。

 だが、結局のところそうはならず、伊織は救済される。それはなぜか。

業績と帰属による自己肯定感

 その問いについて論じるまえに、伊織が周囲からの干渉をなぜ「押しつけ」として感じてしまったのかという問題について述べておきたい。

 人が自らの存在を肯定するための根拠は、大雑把に言って「業績」と「帰属」という二種類に大別することができる。

 業績というのは、要するにその人が成し遂げた「何か」である。難しい試験に合格した、大きな契約をまとめた、たくさんの外国語を話せる…等々の業績は、「自分には価値がある」と信じるための重要な根拠になる。業績というと大げさな感じもするが、ここでは自己の能力や努力によって勝ち取られたもの全般を業績と呼ぶことにしたい。

 業績に基づく自己の肯定は、能力を示し続けられる限りにおいてのみ有効である。スポーツ選手が自らの能力に誇りを抱いていたとしても、能力の衰えはその誇りを奪ってしまいかねない。業績のみに基づく自己肯定は結構疲れるのだ。

 他方、帰属に基づく自己の肯定は、親子関係や地縁、国籍などの「生まれもっての属性」に根拠を持つ。つまり、業績に関係なく「あるがままの自分」を肯定してくれるものだ。親子関係の場合、勉強やスポーツができようができまいが、自分が親の子どもであるという事実そのものによって愛されるという感覚、それが帰属に基づく自己肯定感を育む。

 人格的な独立性が高まる思春期以降になると、帰属に基づく自己肯定感だけでは満足できなくなり、業績に基づく自己肯定が追求されることが多くなる。親から愛されるだけでは物足りなくなり、恋愛をしたい(=自らの魅力(一種の業績)によって愛されたい)という感覚が強まるのはその一例だ。とはいえ、それでも帰属に基づく自己肯定はその土台として機能し続ける。

 ここでようやく『ココロコネクト』の話に戻る。伊織は、元気なキャラを演じるという業績を出し続ける限りにおいてのみ周囲は自分を好いてくれると考えている。ところが、感情伝導によってもはやそのキャラを演じることができなくなってしまった。したがって、それを演じ続け、業績を出し続けることを強いてくる周囲に伊織が「押しつけ」と感じるのは当然だろう。

 その一方で、元気なキャラを演じられなくなったことで伊織の自我は大きく動揺する。それは伊織の自己肯定感が業績的な根拠にのみ依存してきたからだ。伊織はネガティブな自己の本質を誰かが肯定してくれるとは考えていない。帰属に基づく自己肯定感を持つことができないのだ。

 伊織がそのような心理状況にある背景には、彼女が育った家庭環境に原因があると考えられる。「良い子」である限りにおいて承認されるという状況で育ったがゆえに、あるがままの自分では許されないという感覚が非常に強くあるのだろう。事実、物語中に登場する子ども時代の伊織は「ものすごく良い子」である。

伊織とアスカを隔てたもの

 ここで思い出されるのが、旧版の『新世紀エヴァンゲリオン』に登場するアスカというキャラクターだ。知っている人は多いだろうが、悲惨な家庭環境に育ちながらも、14歳にして大学を卒業し、多言語を駆使する天才肌の少女である。エヴァンゲリオンに搭乗することに非常なプライドを有しているが、やがてパイロットとしての才能において主人公シンジに見劣りすることが明らかになっていき、物語の終盤では精神を病んでしまう。伊織と同様、アスカも帰属に基づく自己肯定感を欠如させている。それをエヴァンゲリオンのパイロットとしての業績によって補っているのである。

 しかし、『エヴァンゲリオン』のアスカが心を病んでいくのに対し、『ココロコネクト』の伊織は最後には立ち直る。この両者を隔てたものは何か。

 自尊心をひどく傷つけられたアスカが同級生のヒカリという女の子の家に転がり込むシーンがある(23話)。「私の価値なんてなくなったの」と嘆くアスカに対して、ヒカリは「わたしはアスカがどうしたっていいと思うし、何も言わないわ。アスカはよくやったもの」と言う。それを聞いても、アスカはただ泣くばかりである。

 他方、『ココロコネクト』の文化同好会のメンバーは伊織との対決シーンにおいて、彼女に向かって「自分たちの過度な期待に応える必要などない」「てめえの人生だろうが、勝手に好きなように生きとけ」「永瀬(伊織)の理想の自分もそうじゃない部分も知ったうえで、今度は本当の永瀬に届けるために言う。俺はそれでも永瀬伊織のことが好きだぞ」というメッセージを伝える(16話)。

 『エヴァンゲリオン』でのヒカリの言葉はあくまで業績に基づく肯定(アスカはよくやった)の域を出ていない。だからこそアスカに救いは来なかった。他方、『ココロコネクト』のメッセージは文化研究部の人間関係が業績ではなく帰属に基づくこと、そして「あるがままの伊織」を自分たちが受け入れることを伊織に伝えるものだ。

 だからこそ伊織は、「暗いし冷めてるわたし」をも取り込むかたちで自己を再構築することができたのではないだろうか。ぼくとしては最後のセリフに「さっさと爆発しろ」という感想しか出てこないのだが。

 いまから20年近く前、『エヴァンゲリオン』を初めてテレビで見たときから、このシーンでヒカリがもっと違う、「あるがままのアスカ」を肯定するようなメッセージを伝えることができていたなら物語はもう少し違った展開を見せたのではないかと考えてきた。その意味で、伊織は救われたアスカなのかもしれないと思う。

メディア・リテラシーなるもの

 ぼくは大学でメディアについて教えている。

 メディアに関して学生の書いたものを読むと、かなりの割合で「メディア・リテラシーを身につけることが必要である」とか「マスメディアを鵜呑みにしてはいけない」という結論に至っている。まるで誰かがフォーマットを作っているのではないかと思うほどだ。

 しかし、教員としてこういうことを書くのはいかがなものかとも思うのだが、そもそもメディア・リテラシーなるものは実践可能なのだろうか。ここで安易にウィキペディアから引用してみると、次のように書いてある。

メディア・リテラシー(英: media literacy)とは、情報メディアを主体的に読み解いて必要な情報を引き出し、その真偽を見抜き、活用する能力のこと。
(出典)メディア・リテラシー - Wikipedia

 言わんとすることは分かる。分かるのだが、実際問題としてこれを実践することは不可能なのではないだろうか。

 毎日、毎日、マスメディアやネットを経由してわれわれのもとには膨大な情報がもたされる。それらの真偽をいちいち確かめていたのではメディア・リテラシーを実践するだけで日が暮れてしまうし、真偽を確かめようもない情報のほうがむしろ多い。遠い外国で起きた出来事の真偽など、わざわざ外国に行って調べるわけにもいかない。

 異なるニュースソースを確認するといっても、もともとソースが限られている情報の場合にはその方法も使えない。最終的には、どこかで何かを盲目的に信じるよりほかないのだ。

 結局のところ、完璧なるメディア・リテラシーの持ち主など存在しない。大学で偉そうにメディアについて講義をしているぼくにしても、変な情報を信じてしまって後になって恥ずかしい思いをすることは多々ある。「それはお前の能力が低いからだ」と言われてしまうと、ごもっともと言うよりほかない。

 ただ、ぼく個人としては、絶対に騙されまいとすることよりも、ある程度は騙されても仕方がないという諦めのほうが重要なのではないかと考えている。「自分はメディア・リテラシーが高い」「騙されるはずがない」と思ってしまうと、変な情報を信じてしまったときに誤りを素直に認めづらくなる。自己の誤りを糊塗するためにさらに質の悪い情報源に頼ってしまう可能性すらなしとは言えない。最初から騙されることもあると認識しておいたほうが、誤りを認めるときの心理的ハードルは低いはずだ。

 さらに言えば、本人からするとメディア・リテラシーの実践なのかもしれないが、傍から見ると単なる下衆の勘ぐりか陰謀論にしか思えないことも多い。「アイツがこういう発言をするのは、それでカネが儲かるからだ/組織の差し金だ」という主張はよく目にするが、説得力の欠片もないものも少なくない。「騙されまい」という姿勢が単なる人間不信に陥ってしまうのであれば、寂しい話ではある。

 …と、ここで終わってしまうと、ただの言い訳のような話になってしまうので、とりあえずぼくの考えるメディア・リテラシーについて書いておこう。

 メディア・リテラシーというと、先に見たように自分の外部にある情報をどう吟味するかという話になる。けれども、より有効なメディア・リテラシーはむしろ自分自身を見つめることによってもたらされるのではないだろうか。

 というのも、変な情報に騙されるのは、それが「自分の信じたい情報」であることが多いからだ。ただし、ここで注意する必要があるのは、「自分が信じたい情報」は「自分にとって利益になる情報」とイコールではない、ということだ。

 たとえば、「今年、日本経済は破滅する!」と信じている日本人研究者がいたとしよう。その人にとって日本経済の破滅は決して利益にはならず、個人的にも大きな損害を被ることになる。それでも、その人は日本経済の破滅を予兆しているかに見える情報をどうしても信じやすくなる。それによって自己の認識の正しさが裏付けられたと感じられるからだ。人は自らの判断が正しいことを証明するために、他人や自分自身の不幸すら時に願ってしまう生き物なのである。

 したがって、メディア・リテラシーを発揮するために重要なのは、情報源の吟味よりも先に、自分自身がどういう情報を信じたがっているかを知り、それを率先して疑うことだ。脱原発を支持しているのなら脱原発派に有利だと思われる情報こそ疑うべきであり、安倍政権に反対しているのなら安倍政権にとって不利な情報こそ批判的に吟味すべきだ。

 そのためには、まずは自分自身がいかなる政治的立場を支持しているのかをきちんと知っておく必要がある。何かにつけて中立を気取るよりも、さまざまなトピックについて自分が何を支持して、何を支持しないのかをよく考えておいたほうがいい。「自称中立」の人が実際にはまったくもって中立的ではないというのはよくある話である。

 メディア・リテラシーとはつまるところ情報のフィルターの話だ。したがって、外部の情報を吟味する前に、自分自身のフィルターがどんな状態になっているのかをまずは確認しておいたほうがいい。

スマホとどう付き合うか

 ぼくはネットが好きだ。

 ネットで話題になっている文章にはだいたい目を通すし、ネットで誰かが喧嘩をしていればそれをいそいそと見物に行く。ぼくはメディアの研究者ということになっているので(専門はマスメディアだけど)、いちおうはフィールドワーク?的な意味もある。しかしそういうことを抜きにしても、基本的にネットが好きなのだと思う。

 ネットとの付き合いはかれこれ20年近くなるし、インターネット・アーカイブを探せば1990年代後半にぼくがやっていたホームページを見つけることもできる。だからこそ思う。ネットに時間を費やし過ぎるのは決して良いことではない。ところがいまや、スマホを使えば至るところでネットに接続できてしまうのである。

 ここで話は四半世紀ほど遡る。当時のぼくは高校3年生で、大学受験を控えていた。ところが、一つ大きな悩みがあった。30分も机に向かうことができないのだ。

 自室で勉強を始めても、10分もすれば集中力が切れ始める。テレビゲームがやりたくなる。本棚のマンガを読みたくなる。20分を過ぎれば集中力は限界に達し、気づけば遊んでしまっていた。

 当然、成績は超低空飛行だった。団塊ジュニア世代が大学受験を迎えていた当時、大学受験は今よりも熾烈で、模試の結果から判断するにぼくが行ける大学はほとんど存在していなかった。それでも、どうしても勉強をすることができない。

 ところが、そのうちにぼくが例外的に勉強をすることができる状況があることに気づいた。部活を引退してから、放課後に友人たちと学校の図書室で勉強するようになったのだが、そのときだけは不思議と集中力が続くのだ。

 そこでぼくはようやく気づいた。

 ぼくは徹頭徹尾、駄目なやつなのだ。楽しいものが近くにあると、ぼくの集中力は限りなくゼロに近くなる。だから勉強するためには、勉強以外にやることがない環境に身をおくしかない。もう一つは周囲の目。誰かに見られているという環境であったほうが、集中力は高くなる。

 そこで、ぼくは勉強をするために図書館や予備校の自習室を使うようになった。そのおかげで、一浪はしたものの、なんとか大学に潜り込むことができた。

 ちなみに言うと、ぼくのこういう駄目っぷりは研究者になった今も変わらない。集中して論文を読むには、自宅よりも喫茶店や図書館のほうがずっといい。もっとも、人目があると集中できないというひともいるので、集中できる環境というのはひとによって多少違うようだ。

 以前にもこのブログで紹介した、ケント・グリーンフィールド『<選択>の科学』(紀伊國屋書店)によると、人間の選択は周囲からの様々な操作や誘惑によって簡単にねじ曲げられてしまう。それらに打ち勝つためには、意志を鍛えるのではなく、誘惑が存在する状況に最初から身を置かないことが必要なのだという。

私の友人の一人に、大学で知り合って結婚した妻と長いあいだ円満に暮らしてきた、家族に対してとても献身的な中年男性がいる。ビジネスで成功を収め、地元のコミュニティで中心的な役割を果たし、オバマ大統領の友人でもある。チャーミングで人付き合いがよく、女性にもてる。その彼に、さまざまな誘惑のなかで妻に対する誠実さを保ち、長いあいだ円満な結婚生活を維持していくための秘訣とはいったい何かと尋ねたことがある。それに対する彼の返答は「誘惑の多い状況や、誤解を招く状況に身を置かないこと」だった。
(出典)ケント・グリーンフィールド、高橋洋訳(2011=2012)『<選択>の神話』紀伊國屋書店、p.282。

 話をスマホに戻そう。スマホはとても楽しいデバイスだ。電車のなかで多くのひとがスマホのスクリーンを眺めていることからもそれは分かる。だからこそ、付き合い方がとても難しいデバイスだと思う。

 外国語だったり、難解だったりする文章を読むよりは、ツイッターやLINEの文章を読んだほうが楽しいに決っている。しかし、大学生にもなれば嫌でも長くて難しい文章をたくさん読まなくてはならない。そのためには、スマホの誘惑に直面しない状況をつくっておいたほうがいい。持つのであれば、カバンのなかに入れっぱなしにでもしておいて視界に入らないようにしておいたほうがいいだろう。

 もちろん、スマホは便利だし、役に立つことも確かにある。就職活動時には必須のアイテムとも言われる。こんなに便利はものを全否定するつもりはさすがにない。

 だが、スマホは長い文章を読むのに最適なデバイスではない。きちんとした論理を理解するためにはどうしても長くて難しい文章を読む必要がある。短い文章で理解できるのは切り詰められて、単純化された論理の断片でしかない。複雑な論理を短い文章だけで分かった気になるのは、「自分はちゃんと理解していない」という自覚を失うぶんだけ危険な側面があるとすら言える。

 そこで改めて必要になるのが「紙」である。これだけ電子デバイスやネットが普及した時代にあって、紙なんてのはかさばるだけの時代遅れなメディアなのかもしれない。実際、ぼくも論文をネットからダウンロードしてくることはよくある。雑誌論文をコピーするのにわざわざ大学図書館まで行かねばならないかった時代と比べれば、ずいぶんと便利になったものだ(もちろん、今でも大学図書館に行く必要があることは非常に多いが…)。

 けれども、論文をちゃんと読むときには必ずプリントアウトしたものを読むようにしている。線を引いたりメモを取ったりするのにはやはり紙が便利だからだ。しかも、ネット接続されたPCはそれだけで誘惑を多く抱えており、集中して読むことを阻害しがちだ。

 また、頭の中身を整理したいときにも紙とペンを使うことが多い。なんだかんだ言って、紙というメディアはその扱いやすさにおいて今なお非常に優れたメディアだと思う。何でもネット、何でもスマホ、なのではなくて、状況に応じて適切なメディアを使い分けていくことが、より成熟したメディア利用のあり方であるはずだ。

 いやまあ、こんなに偉そうなことを書いているぼく自身、ネットにかなりしてやられている部分があることは否定できないわけなのだが。

言葉のブーメランが返ってくるとき

 ネット上ではやたらと攻撃的なひとが少なくない。

 とにかく他者や他集団に対して攻撃的な書き込みをする。それも一つの芸風だと言ってしまえばそこまでだが、そういうひとは防御力が弱くなることも多い。

 というのも、誰かを攻撃するためには何らかの理由が必要だからだ。「こんなに酷いことをする(言う)なんて」という理由によってひとは他者や他集団を攻撃する。だが、攻撃をする回数が増えるほどにその理由づけも増えていく。結果、自分自身の行動がそれに当てはまってしまう可能性がどんどん上がっていくのだ。そうなれば、自分自身の言葉がブーメランになって返ってくることもそれだけ多くなってしまう。言論戦において「攻撃は最大の防御なり」は必ずしも妥当しない。

 もっとも、言動の一貫性など最初から気にせず、他人からそれを指摘されたとしても無視すればよいだけなのかもしれない。しかし、そういう人は他人からも「そういう人」だと見なされるようになるだろうし、そうなればその人の言葉を真に受ける人もやがて減っていく…と思う。楽観的すぎるかもしれないが。

 いずれにせよ、言葉を操ることを仕事の重要な一部とする職種、たとえば政治家や研究者、ジャーナリストなどの言動にはやはりそれなりの一貫性が求められるべきだろう。それらの職種に就く人びとの言動があまりに一貫性を欠く場合、社会全体の信頼が毀損してしまう。

 しかしその一方で、発言の一貫性の欠如があまりにクローズアップされるのも結構しんどいよな、とも思う。というのも、人間というのはわりといい加減な存在で、発言に一貫性がないのは例外的というより、むしろ人間の基本的な特性ではないかと思うからだ。

 人間のそうした特性が典型的に示されるのが世論調査だ。世論調査において質問の内容や順番を少し変えただけで、その結果が大きく変わることはよく知られている。たとえば、1970年代に米国で行われた調査では、第一のグループには「米国でソ連のジャーナリストは活動を許されるべきか」という質問が行われた。それにイエスと答えたのは37%に過ぎなかった。第二のグループにはまず「ソ連で米国のジャーナリストは活動を許されるべきか」という質問が行われ、それに対しては大部分の回答者がイエスと答えた。その次に「米国でソ連のジャーナリストは活動を許されるべきか」が問われると、73%がイエスと答えたのだという。

 これは、第一のグループではソ連に対する不信感が強く反映される回答になったのに対し、第二のグループでは米国のジャーナリストに関する質問が先に行われたために、公平性の観点からソ連のジャーナリストの活動を許容すると回答する人が多かったものと解釈できる。これ以外でも、回答者がどのような状況に置かれるかによって質問に対する答えが大きく変化することが知られている。とりわけ意見の分かれやすい問題については、人びとの言動は一貫していないのが普通なのだ。

 実際、学問の世界に長く名を残すような研究者ですら、長い研究キャリアのなかでは意見が変わっていくのが普通だ。そもそも、いかなる状況であれ意見が一貫しているというのは、見方を変えれば柔軟性に欠ける、思考が硬直しているということでもある。様々な思索や学びを経て意見が変わるというのは決しておかしなことでも、恥ずべきことでもない。

 ただ、それでも周囲の人間が知らないうちに意見が変わるというのは、とりわけ言葉を操ることを生業とする人びとにとってはあまり誉められた話ではない。変わったなら変わったで「なぜ変わったのか」をちゃんと説明したほうがいいだろう。

 もう一つ言えば、意見の一貫性の欠如が問題になるのは、以前に他者や他集団を攻撃するために用いた言葉である場合がほとんどだ。攻撃的であるからこそ、反撃を招き寄せる。

 その意味では、先に挙げた世論調査の例はなかなか良い教訓を教えてくれているのではないかと思う。ソ連という仮想敵のことだけを考えるのではなく、自分たち自身(この例で言えば米国のジャーナリスト)が仮想敵と同じ状況に置かれたらどうなるか、あるいは逆に仮想敵が自分たちと同じことを言い出したらどうなるのかを考えることで、ダブルスタンダードやブーメランを避けやすくなる。

 公平であることが常に正しいわけではないが、公平性から逸脱するのであれば、少なくともそのための理論武装をしておく(自分たちの主張や権利がなぜ仮想敵には認められないのか)ことが必要だろう。そうでないと、他者を攻撃するための刃はたちまち自分自身の身を切り裂くことになる。

(参照)J. Zaller(1992) The Nature and Origins of Mass Opinion, Cambridge University Press.

犯罪報道の二つの方向性

 多摩川沿いで中学生が殺害されるという痛ましい事件が起きた。

 事件の詳細についてはまだ部外者が何も語れる段階にはない。にもかかわらず、すでに少年法の改正を求める声が上がっている。容疑者が未成年である場合に氏名などの報道を禁じている規定の改正が必要だというのだ。

第61条 家庭裁判所の審判に付された少年又は少年のとき犯した罪により公訴を提起された者については、氏名、年齢、職業、住居、容ぼう等によりその者が当該事件の本人であることを推知することができるような記事又は写真を新聞紙その他の出版物に掲載してはならない。
(出典)少年法

自民党政調会長の:引用者)稲田氏は「少年が加害者である場合は名前を伏せ、通常の刑事裁判とは違う取り扱いを受ける」と指摘。その上で「(犯罪が)非常に凶悪化している。犯罪を予防する観点から今の少年法でよいのか、今後課題になるのではないか」と語った。
(出典)「自公政調会長、少年法改正に言及 川崎の殺害事件受け」(『朝日新聞』)

 1990年代後半以降、少年による凶悪事件が起きるたびに厳罰化の要求が繰り返されてきた。そして実際に、厳罰化はかなり進められてきている(参照)。今回の少年法の改正要求もこうした「厳罰化」の一環として位置づけられるだろう。

 なお、こういった事件が起きるたびに繰り返される「(少年)犯罪の凶悪化」であるが、統計的にはそういった事態は確認されていない。むしろ、以前よりも凶悪犯罪がずっと減っていることは多くの人びとによって指摘されるところである(参照)。

 それは措くとしても、今回の「厳罰化」要求は、罰を与えると想定される主体が政府ではなくマスメディアだということに特色がある。つまり、マスメディアには社会的制裁を与える力があると暗黙のうちに認めたうえで、その権力を拡大しろと言っていることになる。

 だが、犯罪報道に関して以前から言われているように、マスメディアは国民から何らかの信任を受けた存在ではない。民主主義社会にとって健全なマスメディアは不可欠な存在であるとしても、それとマスメディアが社会的制裁を行うべきか否かはまた別の次元の話になるだろう。しかも、言うまでもなく逮捕された段階では「容疑者」にすぎないわけで、その時点での社会的制裁は真っ当な権力行使とも言い難い。

 以上の点を踏まえて、今後の未成年による犯罪の報道に関しては、おおまかに言って全く異なる二つの方向性が考えられる。

 一つは、これまで以上に情報の公表を進める、言い換えればマスメディアの既存の権力を拡大するという方向性だ。18歳を成人年齢とするのであれば、18歳以上については容疑者の氏名の公表を許可する。この方向をもっと進めれば、年齢に関わらず原則的に加害者の氏名を公表するということにもなる。

 たとえば英国では、1993年に当時2歳の男の子を当時10歳の男の子2人が殺害するというジェームズ・バルガー事件が起きたさい、加害者の生い立ち、氏名、顔写真がすべて報道されている。それ以外の未成年による事件でも、氏名と顔写真は普通に報道されている。

 こうした方向性のメリットの一つは、デマの発生を抑制できるというものだろう。ネット上での私刑がまかり通る状況のなか、正確な情報を伝達すれば、少なくとも無関係の第三者が容疑者扱いされるという事態は回避しやすくなる。隠されているからこそ不正確な情報が蔓延するということは確かに否定できない。

 もう一つの方向性は、逆にこれまでよりも情報の公表を抑制し、マスメディアが社会的制裁を与える権力を制限するというものだ。

 20歳以下の容疑者や加害者に関する報道の抑制はもちろん、成人であっても裁判で有罪が確定するまでは容疑者の氏名の報道は控えるという話になるだろう。それによって未成年の加害者や裁判で無罪となった人びとの社会復帰の促進を目指す。ネットの普及によって過去の犯罪歴がいつまでも記録され続ける状況を考えると、こちらの方向性にも合理性は認められる。

 「前科者の社会復帰など不要だ」という主張も散見されるが、彼らの社会復帰が困難になるほど、再犯の可能性が高まり、新たな被害者が生まれることにもなりかねない。犯罪者を全員死刑あるいは仮釈放なしの終身刑に処するといった極端な方策でも取らない限り、社会復帰はどうしても必要になる。

 たとえば、上で紹介したバルガー事件では、加害者の少年たちが釈放されたさい、英国政府は彼らに新しい氏名を与え、マスメディアにはそれを報じることを禁止している。彼らの社会復帰に費やされた公費は膨大な額に上るという。最初から氏名や顔写真を報道していなければ、そういった公費を節約できた可能性は高いだろう。

 また、容疑者に関する情報公開を進めるべきだという主張の論拠の一つは、被害者の情報ばかりが報道されるのは不公平だというものだ。実際、犯罪被害者に関する報道はしばしば加熱し、場合によっては被害者やその遺族へのバッシングすら生じてしまう。それを踏まえるなら、容疑者または加害者に関する報道のみならず、被害者に関する報道も抑制すべきだということにもなる。

 つまり、こちらの方向性を突き詰めていくと、人びとが被害者や加害者の氏名を知ることに公益性はないのだから、犯罪に関する実名報道全般を止めるべきだという話になっていく。

 しかし、こちらの方向性を追求した場合、問題となるのは真偽不明な情報が蔓延しやすくなることだ。正確な情報が隠されているほど、それに対する欲求は強まる。したがって、こちらを目指すのであれば、真偽不明な情報の流通に加担しないというネットユーザーの意識の向上が、前者の方向性以上に重要になる。

 以上のようにこのエントリでは相反する二つの方向性について考えてきた。以前には、世の大勢はつねに前者の方向性を支持しているとぼくは思っていた。情報の欠乏に対する根強い不満がある以上、人びとはどんな時であれ情報の更なる開示を求めると考えていたからだ。しかし、以前のエントリでも述べたように、マスメディアが「不要な情報」を流すことに対する不満が強まっている(ように見える)現在では、少し風向きが変わってきているのかとも思う。

 なお、ここでは大雑把に方向性を二つに切り分けたが、実際にはもっと多様な組み合わせが想定できる。被害者や容疑段階での加害者に関する報道を制限する一方で、有罪が確定した加害者については年齢を問わず更なる情報公開を目指すといった方向性などが考えられよう。

 いずれにせよ必要なのは、マスメディアによる社会的制裁の是非といった従来の論点に加えて、それを行使する主体があやふやなネットという暴走しがちな新しい「権力」との関係性のなかでマスメディアの役割について考えていくことではないだろうか。

移民の受け入れと異文化の共生

アパルトヘイトエスニック・コミュニティ

 『産経新聞』に曽野綾子氏が掲載したコラムをめぐって、大きな騒ぎが起きている。曽野氏がアパルトヘイト肯定とも解釈できる主張を行なったからだ。

 本人は誤解だとしているようだが、このコラムは高齢者介護のために移民受け入れの必要性を論じる一方、かつての南アフリカの事例を取り上げたうえで「住居だけは別にしたほうがいい」と語っている。アパルトヘイト肯定として解釈されても仕方がないように思う。

 ともあれ、ネットで急速にシェアされ、ネット系のメディアが取り上げ、海外メディアが「安倍首相の元アドバイザー」の発言として報道するようになった。アフリカ日本協議会や在日南アフリカ大使から『産経』への抗議が行われて事件となったことで、やや遅れて日本のマスメディアも取り上げ始めている。

 曽野氏の主張に関してはすでに数多くの批判が行われており、その多くは的確なものだ。アパルトヘイト肯定とも受け止められない論理は言うまでもなく、介護職への蔑視や黒人への偏見など、これが新聞に載るということ自体が不思議な感じすらする文章である。

 しかし、その一方で、もし仮に大規模に移民を受け入れるのであれば、住居の問題というのは確かに避けては通れない問題である。

 そもそも、曽野氏が主張するまでもなく、移民を受け入れればエスニック・コミュニティは自然にできる。ぼくがいま暮らしているロンドンでも、日本人が数多く暮らしている地域は存在する。日本語で教育を行う幼稚園や小中学校があり、日本食を扱う食料品店や日本語が通じる不動産屋や病院もある。なんだかんだ言って非常に便利であることは否定できない。多民族社会であるロンドンにはこういったエスニック・コミュニティがたくさん存在している。

 言うまでもなく、自生的なエスニック・コミュニティの発生とアパルトヘイトのように強制的に居住地区を指定するのとでは事情は全く異なる。無理やりに特定の地域に住まわせることと、便利さを求めて自発的に人びとが集まることとの違いはきわめて大きい。

 ただし、たとえ自生的に生まれたコミュニティであったとしても、それが周囲のより大きな社会からの孤立に帰結するのであれば、好ましい状況だとは言えない。とりわけ貧困がそこに関係する場合、都市は大きく荒廃していく。

移民は不信を増大させるのか

 『孤独なボーリング』などの著作で知られる米国の社会学者ロバート・パットナムは、2007年に発表した論文で、移民の増加によって社会全体での「社会関係資本」の低下が生じているとの主張を行なった。

 大雑把に言えば、社会関係資本とは人と人とのつながりによって生み出される信頼のようなものだ。これが増していくことで社会全体の効率性も増大するとされる。見知らぬ他人が信頼できなければ、駅のホームで行列の先頭に立つことすらできなくなるだろう。

 パットナムは移民が米国に経済的利益をもたらしていることを認めつつも、社会のなかの多様性が増していくことでお互いの信頼が失われ、人びとはより自分の殻に閉じこもるようになっていると主張している。

 このような「移民は社会に対してどのような影響を及ぼすのか」という問題は、欧米の政治・社会学では重要な研究テーマとなっており、パットナムの主張に対しても様々な批判が寄せられている。

 たとえば、エリック・アスラナーの「米国および英国における信頼、多様性、隔離」(2011年)という論文によると、社会の内部における信頼を低下させるのは多様性そのものではない。そうではなく、背景の異なる人びとが分かれて暮らしているということが社会の内部で不信を蔓延させる要因になるというのだ。逆に言えば、多様な人びとが暮らしていたとしても、彼ら、彼女らが社会にきちんと統合されていれば信頼は損なわれない。

 そうした現象が生じる理由としては、居住地域の分離が移民に対する不安を増大させるということが考えられる。日常的な接点が乏しいがゆえに、エスニック・コミュニティに関する情報は口コミやメディアを介したものとなる。どちらにしてもセンセーショナルな情報が好まれる傾向にあるので、コミュニティの外部に漏れ出てくるのは「ろくでもない話」ばかりになる。結果、移民の実像からは乖離したイメージがひとり歩きをして人びとの不安をかきたてていく。

 ただし、人びとが移民との接点を持つようになれば、すべてうまくいくようになるというわけでない。この点については後で論じることにしよう。

 話を戻すと、理由はどうあれ移民の増大が社会の内部での信頼を傷つけるとして、そこにいったい何の問題があるのかと思う人もいるかもしれない。しかし、不信の増大は結果として富の再分配福祉制度の導入・維持を困難にするとも指摘される。

 たとえば米国において福祉国家が発達しなかった大きな要因として、同国の人種的多様性を挙げる研究もある。つまり、貧困層にアフリカ系米国人が数多く含まれるという事実は、富の再分配福祉は彼ら、彼女らを潤わせるだけだという認識を多くの人に与える。結果として福祉国家への支持を集めることがきわめて困難な構造が生み出されているというのだ。

 ピケティ・ブームにも象徴されるように、経済格差が大きな問題として語られるようになっている。しかし、社会の内部での不信感が増大していくことは、その是正をより一層難しくしてしまう可能性がある。

エスニック・コミュニティの孤立をいかに防ぐか

 それでは、エスニック・コミュニティの孤立をいかにすれば防ぐことができるのか。まず考えられる方策としては、エスニック・コミュニティの形成を抑制したり、分散させるというものだ。異なる背景を持つ人びとが混ざり合って暮らすようになれば、偏見も是正され、信頼も維持されやすくなるとも考えられる。

 ところが、先に少し触れたように物事はそんなに簡単にはうまくいかない。それは、エスニック・コミュニティから切り離されてしまうことで、とりわけ子どもの養育が困難になってしまう可能性が生まれるからだ。

 実際、言葉や文化が大きく異なる環境に放り込まれた子どもが受けるストレスはかなりのものだろう。助け合える仲間が少なければ、勉強についていくことも容易ではないはずだ。なかには非行に走る子どもも出てくる。

 さらに、まったく孤立した状況に置かれる移民は、どうしても偏見にさらされやすい環境に置かれることになる。確かに、生活習慣が違ったり、経済苦から大人数でルームシェアリングをすることが、結果として摩擦を生むことはある。ただし、問題はそれだけではない。

 たとえば、日本のマンションにマナーの悪い日本人が住んでいたとする。その場合に「日本人はやはりマナーが悪い」という判断がなされることは稀だろう。ところが、それが外国人であった場合には「○○人はやはりマナーが悪い」という判断にすぐに結びつく。マジョリティであれば個人の性格や特性と見なされるものが、マイノリティの場合にはすぐに集団としての属性だと判断されてしまうのだ。

 そのようなまなざしは、移民を「犯罪者予備軍」であるかのように見なす認識を背後から支える。ラベリング理論が教えるように、特定の集団を「犯罪者予備軍」と見なす認識は、その人たちを本当に犯罪者にしてしまいかねない。

 このような観点からすれば、異なる背景を有する人たちが同じ地域に住むようになれば問題は解決すると考えるのは早計だと言わざるをえない。実際、ジャック・ドンズロの『都市が壊れるとき』という著作によれば、支援を受けて貧困にあえぐエスニック・コミュニティから離れ、中産階級の住宅地で暮らすことを選択した人びとの子どもは、かえって犯罪に走ることが多くなってしまったのだという。

 ドンズロの著作が教えてくれるのは、人びとを特定の地域に無理やり押し込めることも、そこから無理やり引き離すことも良い解決策だとは言えないということだ。そうではなく、移民を積極的に支援することで、彼ら、彼女らが自分たち自身で住む場所を決めることができるようにすることが、長い目で見れば孤立を防ぐためには非常に重要になってくるのだ。

移民の受け入れをどう考えるか

 かなり長くなってきたので、そろそろまとめたい。これまで見てきたように、異なる背景を有する人びとが一緒に暮らすということは容易ではない。その点に関してだけは、曽野氏に同意してもいい。

 だから、どうしてもそれに耐えられないという社会的合意が広く存在するのなら、移民を受け入れないという結論に至るしかない。それが民主主義的な決定だからだ。

 他方で、移民を受け入れることなくしては日本社会の存続が困難になるというのであれば、それはもう徹底的に取り組むしかない。すでに日本で暮らしている外国人や、新たに日本にやってきた人たちが社会の一員としてやっていけるよう、その権利をきちんと保障するとともに積極的な支援を行なっていく必要がある。

 もっとも好ましくないのは、抜け穴的な手法を使うことで移民をなし崩し的に受け入れていくことだろう。低賃金の労働力として劣悪な環境下でこき使い、使えなくなったら遠慮なく切り捨てる。

 そういったやり方は、日本人の賃金を低く抑えることにもなりかねないし、それによって蓄積されたフラストレーションが移民自身に向けられるという悪循環につながる。極右の政治家が自らの求心力を高めるために移民への反発を煽り、生活苦に苛まれる人びとの多くがそうした政治家を支持するようになる。それが今まさにヨーロッパで起きていることだ。

 曽野氏のエッセイはたしかにろくでもないものだが、今後の日本社会がいかにあるべきかを考える良き機会となることを期待したい。

参考文献

Alesina, A. and Glaeser, E. (2004) Fighting Poverty in the US and Europe: A World of Difference, Oxford: Oxford University Press.
Putnam, R. (2007) ‘E Pluribus Unum: diversity and community in the twenty-first century,’ in Scandinavian Political Studies, vol.30(2), pp.137-174.
Uslaner, E. (2011) ‘Trust, diversity, and segregation in the United States and the United Kingdom,’ in Comparative Sociology, vol.10(2), pp.221-247.
ジャック・ドンズロ、宇城輝人訳『都市が壊れるとき 郊外の危機に対応できるのはどのような政治か』人文書院
安田浩一 (2010) 『差別と貧困の外国人労働者』光文社。

紛争地域の報道とメディアの責任

 人質事件に端を発し、紛争地域での取材活動が大きな問題となっている。

 1月26日には『朝日新聞』のイスタンブール支局長がシリアのアレッポに入り、2月1日には現地からの記事が同紙に掲載された。『毎日新聞』は1月31日にその事実を報じ、『読売新聞』や『産経新聞』がそれに続いた。

 『毎日』の記事は、外務省が『朝日』に記者の出国を要請したという事実を報じるだけの短いものだ。しかし、『読売』や『産経』の記事は、『朝日』の記者が外務省の退避要請を無視してシリアに入国したことを伝えており、批判的なニュアンスが強い。

 『読売』や『産経』のこうした姿勢に対して、ぼくは強い不快感を覚えるのだが、このエントリではその理由について述べてみたい。

 そもそも、危険な地域での取材活動というのは誰かがやらねばならない仕事だ。情報の欠落はその地域で何が起きているのかを外部から見えなくしてしまう。もし第三者の観点から事態を報じる人びとがいなければ、現地から出てくるのは紛争当事者からの大本営発表や、Youtubeなどの過激なプロパガンダ動画、あるいは安全な地帯に避難した人びとからの断片的な情報だけということになってしまう。

 実際、多くのメディアはかなりのリスクを背負いながら危険な地域からの報道を行なっている。たとえば、リンク先の動画は英国の公共放送局BBCが昨年の11月にシリアのアレッポからのニュースとして報じたものだ(リンク)。この動画を見る限り、レポーターはかなりのリスクのもとで取材をしていることがわかる。

 また、今年の1月31日には同じく英国の『ガーディアン』紙の記者がシリア北部のコバニに入り、現地の状況を伝えている(リンク)。クルド人ISISから奪回したために当時とは状況が変わっているとはいえ、コバニは殺害された後藤健二さんが拉致された場所だとも言われている。なお、英国政府は「すべての英国民」に対してシリアからの即時退去を求めている(リンク)。

 もっとも、誤解してもらいたくないのだが、危険な地域に記者を派遣するメディアが優れていて、派遣しないメディアが劣っていると言いたいわけではない。メディアにはそれぞれ得意分野やリソースの違いがある。たとえば日本の地方紙に対して世界各地に記者を派遣しろというのは無茶な要求だろう。

 だからこそ、メディアは一方においては競争をしながらも、他方では情報を融通しあうことで広範囲にわたる報道を行なっている。加盟している通信社からニュースを受け取るというのはその典型的な事例だし、あるメディアがスクープを飛ばせば、他のメディアも後追いで取材をしなくてはならないことも多い。競争に熱心な記者にとっては悔しい話だろうが、違う角度から見ればこれも一種の協力体制だと言えなくもない。

 しかし、それでもリスクの大きな危険な地域からの報道というのはどうしても不足しがちになる。フランスの国際通信社であるAFPがシリアの反体制派の支配地域における取材を断念し、当該地域に関するフリーランスの記者からの記事も買わないという判断をしたというのはネットでもよく知られているが(リンク)、その理由としてもリスクの大きさが挙げられている。

 ただ、AFPはなおもシリアの首都であるダマスカスに支局を置き、ニュースを発信している。ダマスカス近郊ではまだ戦闘が続いているにもかかわらず、である(リンク)。つまり、そこで求められているのは「記者をシリアに入国させるか否か」という大雑把な判断なのではなく、「シリアのなかで特に危険な地域に記者を送るか否か」という判断だ。そういった判断は、最終的にはジャーナリスト個人やメディア組織が自らの持つ情報やリソースと相談しながら行なっていくしかない。政府が一律に決められるような話ではないのだ。

 しかも、あえて言えば『読売』と『産経』の両紙には紛争地域からの情報伝達により大きな責任がある。両紙ともに現政権の集団的自衛権や積極的平和主義という外交方針に賛同する姿勢を見せているからだ。

 個人的には、その方法論は入念な検討が必要だとはいえ、日本が世界の紛争解決に積極的に関与していくという方向性は間違っていないとは思う。そして、もしそうなのであれば、日本の有権者には紛争地域に関する情報がこれまで以上に必要になる。

 当該の紛争地域における日本の貢献はそもそも可能なのか、いかなる貢献をすべきなのか、現状の貢献は妥当なのか等々、有権者としてはそれらを知ったうえで政権の評価する必要がある。その際には海外メディアに依存するだけではなく、日本人の視点からの情報は欠かせない。

 有権者がそうした情報を欠いたまま、政府が積極的平和主義に関与していくのであれば、それは政府への白紙委任にほかならない。民主主義にとって決して望ましい状況とは言えない。『読売』と『産経』が集団的自衛権や積極的平和主義を支持するのであれば、両紙には紛争地域に関する情報の発信をより積極的に行なっていく道義的責任があると言っていい。

 とはいえ、両紙が現時点では記者をシリアに送ることができないという判断を下したのであれば、それ自体は必ずしも批判されるべきことではない。シリア全土が危険すぎると見なし、安全を確保しながら取材をするためのリソースが自社にはないと判断したのであれば、それはやむをえないだろう。

 だが、そうであってもリスクを取った『朝日』に関する告げ口的な報道を行うというのは、やはり報道機関としての挟持矜持を疑わせるには十分である。それは言わば、危険地域の情報という他のメディアが生み出す共有財産にフリーライドしながら(厳密に言えばフリーライドではないのだろうが)、その共有財産を豊かにしようとする試みを妨害していることにほかならないからだ。『朝日』の混乱に乗じて同紙の読者をかすめ取ろうとする昨年来のセコい戦略の続きであるようにも見える。

 急減させているとはいえ、『読売』はなおも世界一の発行部数を有する新聞社である。その部数を誇るのであれば、報道機関としての覚悟をもう少し見せてくれても罰は当たらないだろう。

 以上、偉そうなことをつらつらと書いてきたが、ぼく自身は安全なところでぬくぬくと調べ物をしたり、論文を書いたりしているしがない研究者にすぎない。しかし、だからこそ安全面を十分に考慮したうえで、なおもリスクを取る決断をした個々人や集団は応援していきたいと思う。