擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

表現の差別性を告発すること

 いまも昔も、ネットでのコミュニケーションでは諍いが絶えない。昨日はあちらで、今日はこちらで、といった感じで、いろいろなところで火の手が上がる。

 それらの「論争」を眺めていると、対立している双方が強い被害者意識を持っていることが少なくない。とりわけそれが「差別批判 vs 表現の自由の擁護」という構図を取ると、その傾向はより一層強まる。

 一方には、差別によって苦しんでいたり、その苦しみを引き受けることでメディア表現のあり方を問題視する人たちが存在する。他方には、そうした差別批判によって自分たちが享受してきた表現の自由が脅かされていると感じる人たちがいる。「相手によって自分たちの権利が脅かされている」と感じる人びと同士が対立する構図が生まれてしまっているように思える。

 そのような構図のもとでは、「潰すか、潰されるか」という発想にしかならず、意見の違いを認め合ったり、歩み寄りが生じたりすることはまずない。これは大変にしんどい状況だ。

 こうした「差別批判 vs 表現の自由の擁護」という対立が生じやすい理由の一つは、ぱっと見、差別だとは分かりづらい表現が差別として批判されることにあると考えられる。言い換えるなら、表現とすら呼べない、誰がどう見ても差別だという暴力的発話に関しては、そういった論争は生じづらい(もちろん、「○○人を殺せ」という発話まで表現の自由として擁護する人も世の中にはいるので、ゼロになるわけではない)。

 しかし、世の中には明確な差別意識に基づかなくても、偏見や差別に寄与してしまう表現はたしかに存在する。ここでは例として、マーティン・ギレンズ『アメリカ人はなぜ福祉が嫌いか』(シカゴ大学出版)という著作を取り上げたい。1999年の著作なので、今とはかなり状況が変わっている可能性もあるが、参考にはなるだろう。

 この著作のなかでギレンズは、米国人の多数が福祉国家の原理には賛成しているにもかかわらず、なぜ福祉の削減に賛成するのかを明らかにしようとする。そこで彼が提起するのが、米国人は「福祉を受け取っているのはほとんどが黒人だ」と考えているからではないか、という仮説だ。

 ギレンズがこの著作を出版した当時、貧困状態にある全ての米国人のなかで黒人が占める割合は27%だった。にもかかわらず、意識調査において「この国の全ての貧しい人びとのなかで、黒人が占める割合はどれぐらいだと思いますか」という問いに対する回答の中央値は50%だったというのだ。

 さらに、黒人は勤勉だと考える人のなかで福祉削減に賛成するのが35%であるのに対し、黒人が怠惰だと考える人でそれに賛成するのは63%に達する。要するに、福祉全般には賛成でも、「怠け者の黒人」には福祉を渡したくないと考えるがゆえに、福祉削減が支持されるというのだ。

 それではなぜ、「貧しい人=黒人」という現実からは乖離したイメージが生まれてしまったのだろうか?ギレンズは歴史を遡り、そうしたイメージが生まれたのが1960年代以降だとしたうえで、マスメディアが大きな役割を果たしたと主張する。

 ギレンズは貧困に関する雑誌記事やテレビ番組を検証し、1960年代後半以降に黒人が登場する割合が急上昇したことや、分析対象の雑誌で取り上げられた貧困者の57%が黒人であり、テレビニュースになるとその割合がさらに高くなること、貧困者に好意的な報道では白人が取り上げられる傾向が強いのに対して、否定的な報道では黒人がより多く取り上げられる傾向にあることなどを明らかにしていく。

 加えて、実際に雑誌制作に携わっている人びとにインタビュー調査を行い、彼ら、彼女らの多くも貧困者に占める黒人の割合を過剰に見積もっているのみならず、ほぼ無自覚的に偏見を再生産していることを明らかにしている(自分たちが作っている雑誌に登場する貧困層の6割が黒人だという指摘を受けて驚愕したのだという)。

 ギレンズの著作はこれ以外にも目が覚めるような指摘をたくさん行っているが、ここでその内容を長々と紹介したのはそれが「完全に正しい」からではない。そうではなく、メディア表現における差別やそれが生み出す問題を論じるために、ここまでの手間暇をかけて調査を行い、分析を行っているからだ。

 メディア表現が差別性をはらむ可能性はたしかに否定できない。その一方で、多くのメディア表現はクリエイターが心血を注いで作り上げるものであり、それゆえにファンはそれを愛好する。なんだかはっきりしない理由で「それは差別だ」として切り捨てられているように見えると腹立たしく思えるのも理解できる。(実際には部分的に批判されているのに、全否定されていると解釈されるケースも非常に多いと思われる)

 だからこそ、研究者なのであれば、ある表現の差別性を告発するにあたってはその歴史的起源を論じたり、数量的なデータ分析によって、根拠ある形でそれを提示するべきではないだろうか。実際、多くの研究者はそうしているのであり、論文検索サイトJ-STAGEでたとえば「ジェンダー 表象」で検索すれば、そうした論文を数多く見つけることができる。

 もちろん、研究には時間がかかる。いま話題のトピックについて研究を始めたとしても、成果が形になるのは早くて数ヶ月、遅ければ数年先になる。そのころにはとっくにそんなトピックは忘れ去られてしまい、何のためにそれをやったのか分からなくなるという可能性すらある。

 ただそれでも、明らかに差別的な内容であればまだしも、意見の分かれる表現に関してその差別性を指摘するのであれば、それぐらいの準備が必要になるのではないだろうか。

 それがないまま、あるコンテンツを指して「差別だ」と言い切ることは、結局のところ研究の党派性ばかりを際立たせることになり、その説得力を失わせてしまうことをぼくは危惧する。

 なんか壮大なブーメランになりそうなエントリではあるのだけれども。