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擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

スマホとどう付き合うか

学問 コミュニケーション

 ぼくはネットが好きだ。

 ネットで話題になっている文章にはだいたい目を通すし、ネットで誰かが喧嘩をしていればそれをいそいそと見物に行く。ぼくはメディアの研究者ということになっているので(専門はマスメディアだけど)、いちおうはフィールドワーク?的な意味もある。しかしそういうことを抜きにしても、基本的にネットが好きなのだと思う。

 ネットとの付き合いはかれこれ20年近くなるし、インターネット・アーカイブを探せば1990年代後半にぼくがやっていたホームページを見つけることもできる。だからこそ思う。ネットに時間を費やし過ぎるのは決して良いことではない。ところがいまや、スマホを使えば至るところでネットに接続できてしまうのである。

 ここで話は四半世紀ほど遡る。当時のぼくは高校3年生で、大学受験を控えていた。ところが、一つ大きな悩みがあった。30分も机に向かうことができないのだ。

 自室で勉強を始めても、10分もすれば集中力が切れ始める。テレビゲームがやりたくなる。本棚のマンガを読みたくなる。20分を過ぎれば集中力は限界に達し、気づけば遊んでしまっていた。

 当然、成績は超低空飛行だった。団塊ジュニア世代が大学受験を迎えていた当時、大学受験は今よりも熾烈で、模試の結果から判断するにぼくが行ける大学はほとんど存在していなかった。それでも、どうしても勉強をすることができない。

 ところが、そのうちにぼくが例外的に勉強をすることができる状況があることに気づいた。部活を引退してから、放課後に友人たちと学校の図書室で勉強するようになったのだが、そのときだけは不思議と集中力が続くのだ。

 そこでぼくはようやく気づいた。

 ぼくは徹頭徹尾、駄目なやつなのだ。楽しいものが近くにあると、ぼくの集中力は限りなくゼロに近くなる。だから勉強するためには、勉強以外にやることがない環境に身をおくしかない。もう一つは周囲の目。誰かに見られているという環境であったほうが、集中力は高くなる。

 そこで、ぼくは勉強をするために図書館や予備校の自習室を使うようになった。そのおかげで、一浪はしたものの、なんとか大学に潜り込むことができた。

 ちなみに言うと、ぼくのこういう駄目っぷりは研究者になった今も変わらない。集中して論文を読むには、自宅よりも喫茶店や図書館のほうがずっといい。もっとも、人目があると集中できないというひともいるので、集中できる環境というのはひとによって多少違うようだ。

 以前にもこのブログで紹介した、ケント・グリーンフィールド『<選択>の科学』(紀伊國屋書店)によると、人間の選択は周囲からの様々な操作や誘惑によって簡単にねじ曲げられてしまう。それらに打ち勝つためには、意志を鍛えるのではなく、誘惑が存在する状況に最初から身を置かないことが必要なのだという。

私の友人の一人に、大学で知り合って結婚した妻と長いあいだ円満に暮らしてきた、家族に対してとても献身的な中年男性がいる。ビジネスで成功を収め、地元のコミュニティで中心的な役割を果たし、オバマ大統領の友人でもある。チャーミングで人付き合いがよく、女性にもてる。その彼に、さまざまな誘惑のなかで妻に対する誠実さを保ち、長いあいだ円満な結婚生活を維持していくための秘訣とはいったい何かと尋ねたことがある。それに対する彼の返答は「誘惑の多い状況や、誤解を招く状況に身を置かないこと」だった。
(出典)ケント・グリーンフィールド、高橋洋訳(2011=2012)『<選択>の神話』紀伊國屋書店、p.282。

 話をスマホに戻そう。スマホはとても楽しいデバイスだ。電車のなかで多くのひとがスマホのスクリーンを眺めていることからもそれは分かる。だからこそ、付き合い方がとても難しいデバイスだと思う。

 外国語だったり、難解だったりする文章を読むよりは、ツイッターやLINEの文章を読んだほうが楽しいに決っている。しかし、大学生にもなれば嫌でも長くて難しい文章をたくさん読まなくてはならない。そのためには、スマホの誘惑に直面しない状況をつくっておいたほうがいい。持つのであれば、カバンのなかに入れっぱなしにでもしておいて視界に入らないようにしておいたほうがいいだろう。

 もちろん、スマホは便利だし、役に立つことも確かにある。就職活動時には必須のアイテムとも言われる。こんなに便利はものを全否定するつもりはさすがにない。

 だが、スマホは長い文章を読むのに最適なデバイスではない。きちんとした論理を理解するためにはどうしても長くて難しい文章を読む必要がある。短い文章で理解できるのは切り詰められて、単純化された論理の断片でしかない。複雑な論理を短い文章だけで分かった気になるのは、「自分はちゃんと理解していない」という自覚を失うぶんだけ危険な側面があるとすら言える。

 そこで改めて必要になるのが「紙」である。これだけ電子デバイスやネットが普及した時代にあって、紙なんてのはかさばるだけの時代遅れなメディアなのかもしれない。実際、ぼくも論文をネットからダウンロードしてくることはよくある。雑誌論文をコピーするのにわざわざ大学図書館まで行かねばならないかった時代と比べれば、ずいぶんと便利になったものだ(もちろん、今でも大学図書館に行く必要があることは非常に多いが…)。

 けれども、論文をちゃんと読むときには必ずプリントアウトしたものを読むようにしている。線を引いたりメモを取ったりするのにはやはり紙が便利だからだ。しかも、ネット接続されたPCはそれだけで誘惑を多く抱えており、集中して読むことを阻害しがちだ。

 また、頭の中身を整理したいときにも紙とペンを使うことが多い。なんだかんだ言って、紙というメディアはその扱いやすさにおいて今なお非常に優れたメディアだと思う。何でもネット、何でもスマホ、なのではなくて、状況に応じて適切なメディアを使い分けていくことが、より成熟したメディア利用のあり方であるはずだ。

 いやまあ、こんなに偉そうなことを書いているぼく自身、ネットにかなりしてやられている部分があることは否定できないわけなのだが。