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擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

新聞記者とツイッター

 池上彰さんのコラムが『朝日新聞』にいったんは掲載を拒否されたことをめぐって、同紙の記者の多くが社の方針にツイッター上で反対を表明したことが話題を呼んだ。

 ぼく自身はこの動きを好意的に見ていたのだが、批判も少なくない。やらせじゃないのか、自分の会社のことなのに他人事のようだといった批判から、ネット上で社員が会社の方針に反対を表明するなんて企業としてのガバナンスがなっていないというも見受けられる。

 ここで考えたいのは、この最後の批判についてだ。たしかに社論の統一や企業ガバナンスを重視するなら、ネット上での記者による実名での意見表明を認めないという方向性もあるだろう。ツイッターが「バカ発見機」とも呼ばれることに示されるように、思わぬトラブルの原因になる可能性もある。実際、どことは言わないが、実名でのSNSの利用を記者に認めていないメディアもあるように思う。

 しかし、様々なリスク要因があるとはいえ、もはやマスメディアが「社論の統一」を掲げる時代でもないんじゃないかという気もする。そこで取り上げたいのが、玉木明さんの『ニュース報道の言語論』(洋泉社、1996年)だ。

 この著作で玉木さんは、一見すると客観的に事実を描写しているかのような、記者個人の視点が排除された新聞記事の言葉遣いを「無署名性言語」と呼んでいる。

 もちろん、実際には完全に客観的な記事など存在しない。何かを報道するさいには、どの情報が重要で、どの情報が重要でないのかという記者の判断が絶対に入るからだ。たとえば、政局に関する通常の記事では、その日の天気が詳しく語られることはない。ましてや、それが警察発表のような二次情報であれば、そこには事件関係者の解釈や警察関係者の判断など、様々な要素が記事には反映される。

 ところが、無署名性言語は、「わたし」という一人称を排除することで、あたかもそれらの解釈や取捨選択がなされておらず、世界のありのままを映しだしているかのように情報を伝える。言い換えれば、「事実」と読者との間を仲介する、記者を始めとした様々な要素の存在を消し去り、まるで報道によって伝えられる「事実」と直接に向き合っているかのような錯覚を読者に促す表現になるということだ。

 それでは、新聞の記事から記者の一人称が排除されたならば、それはいったい誰の視点から描かれたものだということになるのか。玉木さんによれば、特定の誰でもない社会全体の視点だという暗黙の前提があるのだという。ちょっと分かりにくいと思うので、具体的な例をあげよう。

 新聞が政治家の失言を取り上げるさい、しばしば記事の最後に「批判を招きそうだ」「論議を呼びそうだ」という文章が入ることがある。ここには、記事を書いた記者個人の判断というよりも、社会全体の視点から見てそれが「失言」と呼ぶに価するという判断があると言ってよい。記者個人の視点で書くなら「政治家のこのような発言をわたしは不適切だと思う」といった文章になるはずだ。

 実際、ネットではこの手の「批判を呼びそうだ」という記事に対して「お前(たち)が問題にしたいんだろうが!」といったツッコミがしばしば入る。つまり、「批判を呼びそうだ」という判断が社会全体の視点ではなく、実は記事を書いた記者本人(あるいはその記者が所属するマスメディア)の視点から、つまりは一人称の視点から行われたものだと喝破しているわけだ。

 ともあれ、このような社会全体の視点を暗黙の前提とする報道は、それと視点を同じくしない者を排除することになると玉木さんは主張する。無署名性言語のもとでは自分たちが特定の視点に立っているという自覚が乏しくなってしまい、それを相対化し、他の視点を認めることが難しくなってしまう。とりわけ、報道がセンセーショナルになるほど、その危険性は高まるのだという。

 こうした無署名性言語が抱える問題を乗り越えるべく、玉木さんが主張するのが一人称のジャーナリズムだ。つまり、伝えている事柄があくまで<わたし>の視点から見たものでしかないことを認めるジャーナリズムである*1

 これは単に署名記事であれば良いという話ではなく、記者自身の見方を全面に打ち出した記事ということになるだろう。『毎日新聞』や『日経新聞』に掲載されている「記者の目」は、そういった方向性の記事だとも言えるが、署名記事でありながらも無署名性言語を引きずった感じのものも少なくない。

 そこで、ようやく本題に戻ってきたというか、もはや論じるべきことはほとんど残っていないのだが、ツイッターの話だ。これだけ多くの情報が錯綜しているなかでは、社会全体の視点を暗黙の前提とする無署名性言語の「客観報道」だけでは、その陰で見えなくなっているものがかえって気になってしまう。むしろ、報道のなかで切り捨てられた情報、記者個人が感じた事柄なども伝わってきたほうが、たとえ報道と矛盾する部分があったとしても、かえって信頼できるような感もある。

 もちろん、繰り返しにはなるが、記者個人の考えや感情を伝えやすいメディアだからこそ、それだけにリスクは大きく、トラブルにも発展しやすい。しかし、だからといって記者個人の情報発信を禁じることは、そうしたリスクを避けることで新たなジャーナリズムの芽をも摘んでしまっているようにも思う。

 以上の意味で、記者によるツイッターでの情報発信に積極的な『朝日』や『毎日』は評価に価する。そのせいで今回、『朝日』は社内のゴタゴタを外部に晒すことになったわけだが、長い目で見ればそれは同紙にとって悪いことではないはずだ。今回の件に懲りず、記者個人による情報発信をこれからも推進してくれることを願いたい。

*1:これがさらに発展し、記者個人が取材対象と密接に関わっていくタイプの取材方法がニュー・ジャーナリズムと呼ばれることもある