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擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

「繊細チンピラ」考

コミュニケーション

 先日、このサイトで「繊細チンピラ」という言葉が用いられ、またたく間にネットの流行語になった。たとえば、このエントリこの話に対して、さっそく「繊細チンピラ」という言葉が用いられている。正直、あまり感心しない表現ではあるが、以下ではこの言葉について少し考えてみたい。

 「繊細チンピラ」が発生する大きな要因は、メッセージの誤配にあると言ってよい。通常、対面的な状況では、われわれはそれなりに話し相手に気を遣いながらメッセージを選んでいる。子どもが出来なくて長年苦しんでいる人に、子育ての苦労話などを延々とする人はおそらく無神経の部類に入るだろう。そういう話は避けて、子どもとは全く関係のない話をしておいたほうが無難だ。

 ところが、ネット上での情報発信は、不特定多数に向けて行なわれる。フェイスブックのような限られた範囲でも情報発信でも同様で、「友だち」の数が増えるほど特定の人だけに向けてメッセージを発信することは難しくなり、誰かを期せずして傷つけてしまう可能性も増えていく。

 だいたい、フェイスブック自体、多くの人はあたり障りのないトピックを選んで投稿しているのが現状ではなかろうか。実際、フェイスブック政治的な発言をしたりすると、どうしても角が立ちやすい。なので、誰でも「いいね!」と出来るような無難なトピックとして、どこに行った、何食った、子どもと一緒に出かけた、みたいな話題が選ばれている節がある。にもかかわらず、メッセージの誤配によって傷ついてしまう人が出てくることになる。

 こう考えると、「繊細チンピラ」という言葉が暗に示すように、傷ついたと主張する人だけの問題として考えるのはやや短絡的なのではないだろうか。もちろん、他者が発する情報を鷹揚に受けとめるという態度も重要だけれども、メッセージの誤配を防ぐ工夫も必要ではないかとも思えてくる。

 そこで思いつくのが、コンピュータによる情報のフィルタリングだ。イーライ・パリサーの著作によれば、コンピュータがユーザーの嗜好を自動的に判断し、われわれが見たいものだけを見せてくれる仕組みが整備されつつあるのだという。それが精度を増していけば、子どもが出来なくて悩んでいる人のタイムラインに脳天気な家族写真が表示されることもなくなるだろう。コンピュータがメッセージの誤配を減らしてくれるわけだ。

 しかし他方で、それで本当に良いのだろうかという気もする。誰でも不特定多数に向けて情報を発信することを可能にしたテクノロジーが、それゆえにメッセージの誤配をたびたび引き起こす。結果として、不特定多数への情報発信を不可能にするような新たなテクノロジーの発達を促してきたわけだ。だがそれはインターネットというテクノロジーが有するポテンシャルを殺すことになるのかもしれない。

 もちろん、そんなことを言ったところでテクノロジーの進化が止まるわけもない。だとすれば必要なのは、どこまでも開かれた公共的な圏域と、自分の殻に閉じこもることができる私的な圏域をそれぞれインターネット上で再構成していくことなのではないかとも思う。

 現在はそれがうまく分離されていないがゆえに、不要な摩擦が起こっているのではないだろうか。続発するネット炎上はその一例だろう。ほとんどのネット炎上は、本人たちは私的な圏域にいるつもりが、実は公共的な圏域で情報を発信していることに起因している。

 私的な圏域においては情報フィルターによって自分が見たいものだけを見ていればいい。メッセージの誤配も起こらない。他方、公共的な圏域では情報フィルターは無効化され、たとえ多くの人がそれを欲しなかったとしても、多様な情報が可視的に流通していくべきだろう。ここではメッセージの誤配はむしろ推奨されると言ってもいい。

 もちろん、そうなったらそうなったで、多くの人は私的な圏域に閉じこもることになるだろうが、それはまた別の問題として考えていいんじゃないかと思う。

 うーむ、最後のほうは「繊細チンピラ」とあんまり関係のない話になってしまった。まあ、こんなとこで。