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擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

民主主義の黄昏

社会

 ネットでは麻生さんの「失言」が話題だ。たとえ発言を文字起こししたものを読んだところで、麻生さんが何を言いたかったのかは結局よく分からないのではないかという印象がある。

 それはさておき、麻生さんの発言をきっかけとしてワイマール憲法やナチス、全権委任法などに関する関心も高まっているようだ。もしかすると、現在の日本もそういった事柄に関心を寄せざるをえない事態に至っているのかもしれない。(このエントリとか)

 残念なことに、ぼくはドイツに関してはそれほど勉強しないので、当時の状況がどうだったのかということについてははっきりと言えない。ただ、当時において民主主義に対する懐疑が高まっていたのは、ドイツに限った話ではない。議会主義の母国と言われるイギリスにおいても、民主主義への批判は強まっていた。

 実際、イギリスにおいてもファシズム団体はいくつか生まれていた。そのなかでも、もっとも多くの支持者を集めたのが、オズワルド・モズリー率いるイギリスファシスト連盟(BUF)だ。といっても、その規模は最大でも4万人程度であり、泡沫的な団体として片付けられることも少なくない。しかし、当時のイギリスにおいてモズリーの問題意識はかなり広く共有されていたと言うことができる。

 そこで、このエントリではモズリーの著作『The Greater Britain』(1932年)から、その一部を紹介してみたい。

国民生活の公共的な出来事に関して、我々は無秩序と無政府状態に苛まれている。個人的な生活の私的な出来事に関して、我々は干渉と抑圧に苛まれている。…ファシストの原則は、個人的な生活における自由であり、公的な生活における義務である。(p.50)

 現在の政府は、私生活に対してはあーだこーだ文句を言ってくるくせに、公共的な問題については何一つまともな意思決定をすることができない。ファシストが目指すのは、私的な生活では国民が自由を謳歌する一方で、国防のような公共的な問題については一致団結できる国家体制だ、という話。

あらゆる政治的決定の背後にある諸問題は、公衆の前に提示されるにはあまりに複雑すぎるというのが実際のところである。その結果、選挙が大量のジャーナリスティックな標語によって戦われることになってしまっている。(p.44)

 これは、いわゆるワンフレーズ・ポリティクスに対する批判だ。社会の複雑な問題を公衆が理解することはできないため、単純化されたフレーズだけが選挙戦では氾濫することになる。そして、素人が素人を選出するがゆえに、的確な政治的判断は極めて難しくなる。

我々の現在のシステムの危険性は、それがあまりに安易に軽蔑されてしまうという事実にある。今日では誰も選挙での公約が実現されるとは期待していない。(p.46)

 選挙公約は有名無実化しており、誰もそれを信頼していない。現代日本におけるマニフェスト選挙への失望と通じるものがある。

討論はもはや建設的ではなく、純粋に妨害的なものでしかなくなっており、人民の情熱をかきたてうる一時的な問題に集中してしまっている。そうした問題はまたしても政府が関心を払うべきである本当の問題をぼやかしてしまう傾向にある(p.44)

 議会での討論は、結局のところ政局を反映したものでしかなく、本当に重要な問題から人びとの目を逸らす働きしかしていない。

今日の敵は、現在の議会主義の長老たちである。長老たちの支配が長引けば、明日の敵は共産党ということになるだろう。(p.188)

 現在の議会は高齢の政治家に牛耳られており、このままではそれに対する不満から左翼勢力の台頭を許すことになるだろう、という指摘。

政治のビッグネームや政党マシーンや新聞の権力は、誤ったイメージの集中砲火やよく組織されたボイコットを通じて我々に反対するであろう。(p.183)

 腐っているのは議会や政治家だけではなくて、マスメディアもそうである。真の愛国者である「われわれ」に対するネガティブ・キャンペーンを仕掛けてくる。(もっとも、この後、BUFは短期間ながら『デイリー・メール』という新聞の支援を受けることになる)

大臣やシティは自分たち自身の国を除くあらゆる国々の支援に忙しい。その結果はあまりにも良く知られているが、イギリスの利益という忘れられた旗印を掲げる勇気のある者は誰でも、我々の政治システムのなかではのけ者にされてしまうのである。(p.87)

 これはちょっと説明が必要かもしれない。ここでモズリーは、自由貿易のせいでイギリスの製造業が危機に瀕していることに憤っている。しかも、イギリスの金融機関は、製造業でライバル関係にある他国への融資を行うことで、結果として自国の製造業を壊滅に追いやっていると主張する。言わば、グローバリゼーションに対する、ナショナリズム的反発と言えるだろう。

 それでは、こういった状況に対して、ファシズムはどのような処方箋を提供しているのだろうか。

議会の終焉に際して、新たな選挙が職業的な選挙権に基づいて行われるであろう。すなわち、鉄鋼労働者は鉄鋼労働者として投票するであろうし、医者は医者として、母親は母親として彼らの適切な団体内部で投票するであろう。…政党の対立は技術的かつ非政治的な議会において終焉を迎えることになるだろう。その議会は政党の障害物競走に関わるのではなく、建設的な国益に関わるであろう。(p.42)

要するに、素人が素人として投票するから良くない。したがって、各人はそれぞれの職業に応じて選挙権を獲得し、専門知識を活かして自らの職業集団の代表を選出することになる、という話。ファシズムだからといって選挙や人民の意志を否定するわけではない。この点がもっとも明確に主張されているのが、次の引用。

ファシズムは古い意味での独裁制ではない。古い意味での独裁制とは、人民の意志に反する政府を意味している。ファシズムは現代的な意味での独裁制である。すなわちそれは、人民が乗り越えることを決意した問題を解決する権力を有する、人民によって武装された政府を意味している。…独裁制という言葉によって我々はリーダーシップを意味している。独裁制という言葉によって(我々の反対者は:引用者)暴政を意味している。(p.26)

 独裁と言うと響きが良くないかもしれないが、実際のところファシズムが目指しているのはリーダーシップの確立なのだという主張。民主主義的に民衆の意志を尊重しつつ、リーダーがきちんとリーダーとしての役割を果たすことができる体制。それこそがファシズムなのだ。

 さて、いろいろと紹介してきたが、以上の主張の全部ではなくとも一部に共感する人もけっこういるのではないだろうか。

 考えてみれば当たり前の話で、たとえ泡沫政党だったとしても、人びとがまったく共感できないような主張を掲げるということはありえない。上でも述べたように、当時のイギリスにおいてBUFを支持するか否かは別としても、モズリーのような民主主義への懐疑はかなり広く見られた。さらに、彼の批判は現代の民主主義にもかなり当てはまってしまう。

 にもかかわらず、現在でも民主主義が制度として広く支持されているのは、結局のところ代替的な選択が見当たらないという点によるのだろう。「絶対悪」としてのナチズムやファシズム、あるいはコミュニズムが存在するがゆえに、第二次世界大戦後において民主主義は自らへの懐疑を払拭することにかなり成功した。逆に言えば、そのような「絶対悪」を欠くがゆえに、戦間期のイギリスでは民主主義への懐疑が噴出することになったのだろう。

 その意味で、麻生さんの真意がどこにあるかは措くとして、ナチスから学ぶという発想は、現代の民主主義が自己を正当化するための最も基本的なコードから逸脱する、と言えるかもしれない。