擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

(書評)「プロパガンダ」史観の限界

素人が挑む「南京事件

 この八月、いわゆる「南京事件」を論じた二冊の書籍が出版された。

 一冊は有馬哲夫『歴史問題の正解』(新潮新書)、もう一冊は清水潔『「南京事件」を調査せよ』(文藝春秋)だ。有馬は冷戦期プロパガンダ研究などで有名なメディア研究者、清水は桶川ストーカー事件や足利事件などの報道で知られる日本テレビの記者である。

 ここで注目したいのは、どちらも「南京事件」の専門家ではないという点だ。実際、清水の著作を見ると「南京事件」は「相当に面倒そうなテーマである」といった後ろ向きな記述や、事件に関する書籍の多さに愕然となるシーンなど、清水自身がこの事件について詳しい知識を持たなかったことが正直に吐露されている。

 他方、有馬の著作は「本書は日本、アメリカ、イギリスの公文書館大学図書館で公開されている第一次資料に基づいて歴史的事実を書いたものである」という書き出しに象徴されるように、あくまで客観的な研究者としての立場性を前面に押し出している。

 この部分だけを見れば、清水の著作は有馬のそれに比べて、相当に信頼性が落ちるという評価も可能かもしれない。しかし、評者の判断としては、清水の著作を前にすると、有馬の著作は勇み足に過ぎると言わざるをえない。もちろん、評者自身、「南京事件」については清水以上の素人である。したがって、以下はあくまでその素人としての感想である。

南京事件は中国のプロパガンダ」?

 有馬の『歴史問題の正解』の帯には、「南京事件は中国のプロパガンダ」という文章があり、そこに「○」がついている。つまり、それが正解だということだ。

 ここで気になるのは、「プロパガンダ」という言葉の意味である。多くの場合、そこには「虚偽」という意味合いが含まれる。この意味からすれば「南京事件と呼称される虐殺行為は存在しなかった」という解釈も導かれうる。

 ところが、その解釈は正しくない。

 この著作のなかで有馬は、1937年12月に南京で日本軍による殺戮行為や性暴力があったということを否定していない。その意味では、南京での出来事に関する認識において、有馬と後述する清水との距離はそれほど遠くないのである。有馬は言う。

これらの(一般市民に対する:引用者)残虐行為と暴行は戦闘行為とはいえず、いかなる弁解の余地もない。この点は、重く受け止め、日本軍の非を認めるべきだろう。この部分までも否定すると、誠実さを疑われ、再三いうが、国際世論を敵にまわすことになる。
(出典)有馬哲夫(2016)『歴史問題の正解』新潮新書、p.33。

 したがって、帯から「虐殺は事実無根」論を期待して本書を紐解いた読者は肩透かしを食らうことになる。編集者の勝利である。ただ、帯だけを見て「虐殺は事実無根」という印象を強める人がいないことを願うばかりである。

 それでは、有馬が言うプロパガンダとは何か。

 本書で有馬が主張するのは「南京事件WGIP(ウォー・ギルド・インフォメーション・プログラム)によって日本人に罪悪感を植え付けるために利用され、この時点で被害者数は2万人とされていた」「日本軍が30万人も殺害できるはずがない」「虐殺が起きた責任は、日本軍よりも国民党軍のほうがはるかに大きい」という点である。つまるところ、「日本軍のせいで30万人が虐殺された」というのがプロパガンダということになる。

 この点を明らかにするため、有馬は図書館や公文書館の「一次資料」をもとに客観的事実を提示していく。巻末にはその資料を示す脚注も付され、反論があるなら資料をもってせよ、と主張する。ここまでは研究者として誠実な態度といえる。

 しかし、その脚注を見ていくと、不思議な印象を覚える。「一次資料」によって示されるのは「南京事件に関する占領軍のプロパガンダ」に関するものが多く、南京事件そのものに関しては、有馬がイギリスで発見したというキリスト教宣教師の手記が一つ、別の人物の編集による資料集が二冊、二次文献が一冊列挙されているだけである。実際、南京での「歴史的事実」の記述においては、そのほとんどに脚注がない。

 それゆえ、先の主張のうち、有馬自身が発見した一次資料によって裏付けられるのは、「南京事件WGIP(ウォー・ギルド・インフォメーション・プログラム)によって日本人に戦争に対する罪悪感を植え付けるために利用された」という部分だけである。その事実だけをもって、南京事件という歴史的事象の「正解」を語ってしまうのは、研究者としていかがなものかという印象を拭えない。

 たとえば有馬は、「南京城内には25万人しかいなかったのに、日本軍が30万人もの人間を虐殺できるはずがない」という「南京事件」を否定するさいにしばしば展開される主張をそのまま踏襲している。しかし、それに対しては、「南京事件」とはそもそも南京城内のなかだけで起こった虐殺を指すのではなく、その周囲の広範囲の地域で、しかも6週間から数ヶ月にわたって生じた事象を指すという反論もなされている(清水の著作も同様の立場にたっている)。有馬の主張が「客観的事実」として受け入れられているわけではないのだ。

 また、「虐殺が起きた責任は、日本軍よりも国民党軍のほうがはるかに大きい」という主張に関して言うなら、戦闘に勝利した側である日本軍の行動について、有馬はしばしば「仕方がなかった」「正当防衛」という論理を用いて説明する。他方、敗北を喫した側の国民党軍の行動については、組織的な撤退が行われなかった点について「仕方がなかった」という論理は一切用いられない。この解釈に有馬自身の価値判断が相当に含まれていることは否定しがたい。いかに困難な状況にあろうとも、実際に手を下した側の責任をより軽く評価するという発想にはやはり違和感が残る。

 加えて有馬は、日本軍司令官の松井石根の責任を重く見るが、それでも彼が戦犯として処刑された事実をもって、日本軍全体および日本の一般国民の免責を図っている。松井の独走が悪かったのであり、その罪は償われた以上、その他の日本人は関係ないという論理である。しかし、現場の司令官の独走を許したということであれば、組織全体のガバナンスの問題が問われてしかるべきではないだろうか。

 まとめるなら、本書で語られる「正解」は、あくまで「プロパガンダ」研究者としての有馬自身の解釈を出るものではない。無論、WGIPに関する有馬の発見は、それ自体では貴重なものである。しかし、そこから南京事件という事件全体について語ってしまったところに、研究者としての勇み足があったと言わざるをえないように思う。

虐殺を消し去ろうとする力

 自己の客観性を標榜する有馬に対し、ジャーナリストである清水は素人としての自覚のもと、とにかく事実に対して誠実であろうとしている。清水は中国の「南京大虐殺記念館」を訪問し、無料で営まれているその施設や、その内部で繰り返し強調される「30万」という数字にプロパガンダの匂いを嗅ぎとる。

 その一方、南京での出来事に関する旧日本兵の証言を30年近くにわたって収集し続けてきた小野賢二にも協力を仰ぎ、彼が収集した手記や、証言を収録したテープやビデオを入手する。のみならず、自身でも旧日本兵と接触して証言を聞き、その裏付けのために他の証言や公文書を精査する。現地に赴き、虐殺の現場を写したとされる写真にある山の稜線を確認する。結果、被害者の総数を明らかにすることはできないとはいえ、否定しようもない事実として旧日本軍による凄惨な殺戮が姿を現す。

 たとえば、小野が収集した旧日本兵の手記の一つには、以下のような記述があったという。

 拾二月拾六日 晴
 午后一時我ガ段列ヨリ二十名ハ残兵掃湯ノ目的ニテ馬風山方面ニ向フ、二三日前捕慮セシ支那兵ノ一部五千名ヲ揚子江ノ沿岸ニ連レ出シ機関銃ヲ以テ射殺ス、其ノ后銃剣ニテ思フ存分ニ突刺ス、自分モ此ノ時バカリト憎キ支那兵ヲ三十人モ突刺シタ事デアロウ。
 山となって居ル死人ノ上をアガツテ突刺ス気持ハ鬼ヲモヒ丶ガン勇気ガ出テ力一ぱいニ突刺シタリ、ウーン/\トウメク支那兵ノ声、年寄モ居レバ子供モ居ル、一人残ラズ殺ス、刀ヲ借リテ首ヲモ切ツテ見タ、コンナ事ハ今マデ中ニナイ珍ラシイ出来事デアツタ、
(出典)清水潔(2016)『「南京事件」を調査せよ』(文藝春秋)、pp.52-53。

 揚子江の河原で行われた捕虜の大量虐殺。機関銃による銃撃から逃れるため、捕虜たちは逃げ惑い、他の捕虜の死体によじ登ることで3メートル以上にも及ぶ人間の柱が出現したのだという。

 このような虐殺の記録は、小野や清水が収集した複数の手記や証言に現れ、何らかの「工作」によってでっち上げられた可能性は著しく低い。むしろ、清水の調査から浮かび上がるのは、有馬が言う意味での「プロパガンダ」とは異なる意味でのプロパガンダ、もしくは圧力の存在である。
 南京攻略に参加した海軍駆逐艦に乗船していた元兵士は、長崎の佐世保に帰港したさい、次のような注意を受けたのだという。

「下船する時、当直士官にこう忠告されたんです。『南京で見たことは決して口外するな』と。当直士官が考えたことではなくて、艦長とか、上層部からの指令がそういう形で伝えられたと思います。その時、私もやっぱりあれはマズイんだなあと感じましたね」
(出典)前掲書、p.134。

 虐殺に関する記憶は多くの場合、図書館や公文書館に記録されることなく、歴史の彼方へと消え去っていく。しかも、この引用文で示されるように、それらを意図的に消し去ろうという動きも存在する。それを食い止めるのが研究者やジャーナリストの仕事なのだとすれば、長年にわたって手記や証言を集めてきた小野は言うまでもなく、「南京事件」の素人であった清水の仕事も、その名に値するものと言えよう。

「プロパガンダ批判」の陥穽

 まとめるなら、南京での出来事の事実認識に関して、実はそれほど大きな開きのない有馬と清水の違いは、前者が<加害に対する罪悪感をターゲットに植え付けるプロパガンダ>を論じているのに対し、後者はそれを意識しつつも<加害の事実を隠蔽しようとするプロパガンダ>に焦点を当てている点に求められる。

 だが、それ以上に際立つのは、歴史的な事象に対する態度の相違である。繰り返しになるが、清水は素人であることを自覚しつつ、可能な限り多角的に出来事に迫ろうとしている。それに対し、有馬は「南京事件」の「正解」を語ると言いつつ、事件そのものについてはほぼ二次資料に依存するかたちで記述を行っている。

 そもそも、有馬の『歴史問題の正解』は、「南京事件」のみならず、真珠湾攻撃、原爆投下、日韓国交正常化まで、数多くの歴史的トピックについて「正解」を述べている。しかし、それらの事象については膨大な数の専門家が存在し、様々な見解の相違が存在するはずである。多くの一次資料を見ているとはいえ、これだけ多くのトピックを一刀両断するというのは、研究者であればおよそ考えられない態度である。

 ここで邪推をするなら、この全能感こそが「プロパガンダ批判」の怖さではないかと思う。「一次資料」からプロパガンダの存在を知ることで、それが歴史の一側面でしかないにもかかわらず、「歴史の真実」を知ったという発想になる。積み重ねられてきた膨大な知見を一足飛びにして、「プロパガンダ批判」の観点から歴史的事象の「正解」を導き出してしまう。

 だが、「ある事象がプロパガンダとして喧伝された」という事実は、事象そのものについては何も教えてくれない。その欠落を二次資料で埋め合わせつつ、「これは一次資料に基づく著作である」と標榜するなら、それ自体がプロパガンダだと言わざるをえない。この意味で、有馬の著作は「歴史問題の正解」たりえない、というのが評者の判断である。

 したがって、「南京事件」について何かを学びたいのであれば、評者は有馬の著作ではなく、清水の著作を薦める。(敬称略)