擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

脱成長と団塊ジュニアの『三丁目の夕日』

 時期を逸した話題ではあるが、都知事選に対して細川護煕候補が「脱成長」なるスローガンを掲げて話題になったことがあった。

 ネット上ではかなり批判があったが、とりわけ40代以下の世代はあれを見てガックリした人が少なくなかったのではないだろうか。「脱成長」というスローガンをすんなり受け止められる人とそうでない人。世代論に収斂させることは危険ではあるが、やはりそこに世代差みたいなものを感じずにはいられないし、リベラルとされる人たちの間にもその点においてかなりの亀裂があるのではないだろうか。

 ぼく自身は世代で言えば団塊ジュニアということになる。高度成長が終わり、石油ショックの影響で日本経済がマイナス成長を記録したあたりに生まれた。バブル景気を迎えたのは中学から高校にかけての時期だ。中学生のころだったか、テレビのニュースを見ていたら、京都の某R大学の学生たちが何人かインタビューされており、それぞれが内定を5つも6つも持っていたのが非常に印象的だった。

 しかし、大学入学前にバブルは弾け、卒業するころには就職氷河期を迎えた。1998年に日本経済は持続的なデフレに突入した。サラリーマンの平均年収は下がり続け、1997年には467万円だったのが2012年には408万円になっている。この間、非正規雇用の割合は大きく上昇しているから、この間に労働市場に参入した若者たちが実際に手にする給与はこの数字以上に下がっているはずだ。

 世代的に言えば、最終学歴で違いはあるにせよ、おおむね社会に出る前に日本経済の絶頂期を眺めたあと、社会に出てからは芳しくない経済状況を生きてきた世代ということになる。そうした「世代感覚」からすれば、70歳を過ぎた都知事選の候補者が「脱成長」などとお気楽に掲げているのを見ると、理解できないし、したくもないという気持ちになるのでないだろうか。経済がうまく回っているというのがまずは大前提で、話はそこからじゃないかと思うのだ。

 いまの30~40代のリベラル寄りの人たちの間でも、こうした世代感覚はかなり共有されているのではないかと思う。富の再分配を進めるにしても、まずはその前提となる経済成長をしっかりとやってからという発想になるんではないだろうか。このような感覚からすれば、団塊世代やその上のリベラルや左翼の人たちとの意識のギャップは絶望的なまでに広く感じられる。

 とはいえ、こうした経済重視の発想が世代的な感覚に起因しているとすれば、距離を置いて眺めてみることもまた必要ではないだろうか。

 たとえば、団塊世代について考えてみよう。数年前に『三丁目の夕日』という映画が流行ったとき、あれは団塊世代のノスタルジー的幻想にすぎないという意見が幅広く見られた。実際、『三丁目の夕日』の時代、経済格差は大きく、貧困は蔓延しており、少年犯罪はいまよりもはるかに多く、かつ凶悪だった。

 しかし、幼少期の記憶は美化されるのみならず、個々人の思想を深く規定するところがある。団塊世代とその上の世代に人たちに「脱成長」というスローガンが甘美に響くのだとすれば、それは『三丁目の夕日』に象徴されるような「カネは無くても生活は不便でも心は豊か」という時代のイメージが作用しているのではないだろうか。しかし、その記憶を共有しない世代にとって、「脱成長」は強い違和感の源泉になりうる。

 同じように、上で述べたような経済成長があってナンボという発想もまた、ある種の世代感覚に起因しているのかもしれない。団塊ジュニア世代の成長期、高度成長はとうに終わりを告げ、第二次石油ショックや円高不況などはあったにせよ、日本経済は成長を続けていた。日本は着実に豊かになっていったのだ。だが、社会に出たあとには、その豊かさがただすり減っていく過程を見続けることになった。豊かさの記憶と摩耗の経験、そのギャップが経済成長を前面に掲げない政治家に不信の目を向けさせる。

 しかし、『三丁目の夕日』が団塊世代のノスタルジー幻想だとすれば、団塊ジュニアの豊かさの記憶もまたそれと同じ類の幻想の可能性もある。70年代から80年代にかけての彼らが成長期を過ごしていた時期にあっても、様々な問題があり苦悩があった。ところが、幼かったがゆえにそのことに気づかなかった、あるいは忘れてしまった彼らは、無意識のうちにあの時代をあるべき姿として、当時の歪みを等閑視したままで「まずは経済成長」と唱えているのかもしれない。先の選挙で30代、40代に田母神候補の支持者が比較的多かったことが話題になったが、これには彼の政治思想ばかりではなく、公共事業と都民税減税を柱とした「タモガミクス」を打ち出したことも作用したのかもしれない。

 そして、このような団塊ジュニアにとっての『三丁目の夕日』は、別の世代からすれば違和感を覚えずにはいられない発想として映ることもありうる。とりわけ70年代、80年代を実際に社会のなかで生きた世代にとっては「そんなにいい時代でもなかった」という話になるのかもしれない。あるいは、団塊ジュニア世代が老齢期を迎えて70年代や80年代を懐かしく振り返ったとき、若い世代からノスタルジー幻想だと嘲笑される可能性ももちろんある。

 それでも、やはり高齢者が「脱成長」などというスローガンを掲げて選挙戦を戦うのを見ると、それではいかんでしょ、と思わずにはいられない。まずは経済成長、そのうえで富の再分配をどこまで勝ち取れるか。70年代80年代に回帰することが不可能であったとしても、企業経済の活性化、低い失業率、生活の安定、そして何より「これからもっといい時代になっていくのだ」という期待、これらをどうにかして回復することを目指す。たとえ時代に制約された発想であっても、現時点ではそこから出発するしかない、と思う。