擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

13年目のパディントン

 昨日、子どもを連れて、ロンドンの観光に出かけた。いくつかの場所をまわり、夕方過ぎにパディントン駅にやってきた。ところが、移動の途中に下の子どもが寝てしまい、ぼくらは駅のベンチでしばらく時間を潰すことにした。30分ぐらいでようやく目を覚ましたので、少し買い物をしてから、地下鉄で帰路につく。

 パティントン駅に来るのは本当に久しぶりだ。というか、この4月にイギリスに来てからは初めてのような気がする。懐かしい気持ちで地下鉄を待っていると、ふとあることに気づき、慌てて時計で日付を確認する。7月7日。ぼくが初めて一人でイギリスに来てからちょうど13年目ということになる。

 13年前、ぼくは早朝に成田を出発し、夕方にヒースロー空港に到着した。ヒースロー・エクスプレスでパディントン駅まで来たぼくは、そこで宿を取ることにする。予約はしていなかったと思う。行き当たりばったりが好きだったのだ。

 適当に見つけた宿で荷物を置くと、さっそく街に出る。時差の関係でさすがに眠いが、夕食と買い物を済ませねばならない。夕食は近くに見つけたレバノン料理の店に入った。やはりイギリスに来た以上は変わったものを食べねばならないと思ったのだ。しかし、ぼくの口にはその店の料理は全く合わず、イギリスでの厳しい食事事情を予感させた。

 宿に戻ってからは、当時やっていたホームページの更新作業を始める。半地下の薄暗い部屋だったが、ホテル事情の悪いロンドンでは贅沢を言うわけにはいかない。無論、当時は無線LANなど発達しておらず、電話回線を使うしかない。

 しかし、試行錯誤の挙句、電話回線も使えないことが判明。とりあえず後日アップすることにして、ウェブ日記用の文章を書き始めた。が、すぐに眠くなってしまい、続きは次の日に書くことにしてさっさと寝てしまった。

 13年も前の話なのに、わりと細かく覚えているのは、やはりぼくにとってそれが特別な一日だったからだろう。ぼくはそれから大学院生として一年ちょっとをイギリスで過ごした。嫌なこともあったが、楽しいことのほうが圧倒的に多かった。期待したほどには英会話の力は伸びなかったけれど、いろいろな出会いがあり、いろいろな発見があった。新しい研究も始めた。あの一年を経験しなければ、ぼくの人生は少なからず変わっていたはずだ。

 あの日、パディントン駅でたくさんの本が詰まったトランクを引きずりながら歩いていたぼくは、ちょうど13年後の自分が同じ場所でベンチに座りながら子どもが起きるのを待っているなんて夢にも思わなかったはずだ。もし時間を飛び越えて、ベンチに座っているぼくの横を13年前のぼくが通り過ぎたとすれば、どんなアドバイスをするだろう?

 英会話をもっと練習しろとか、統計学をちゃんと勉強しておけとか、ドイツ語は潔く諦めろとか、Windows Meは地獄から来たOSだとか、いろいろなことが浮かぶ。後悔は無数にあって、やっておけば良かったと思うこと、言わなければ良かったと思う言葉、もっと大切にすべきだった友人は多い。

 でも、やっぱり余計なことは言わず、黙って肩を叩いてやるのが一番だという気もする。当時、大学院みたいな不安定なコースを選んでしまったぼくの将来は全くもって不透明で、自分が何をしたいのかもよく分かっていなかった。ただ、それでもこの先に何が待っているのかが楽しみで仕方がないという感覚だけはあった。

 それさえあれば、きっと十分だったはずなのだから。

(追記)この記事は日本時間では7月9日にアップされていますが、いま現在のイギリスはまだ7月8日です。