擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

「若者バッシング批判」の陥穽

 大学時代の同期と一緒に飲んだりすると、そろそろ「あれ」を聞くようになってきた。そう、若手社員に対する愚痴だ。

 「近頃の若いやつには働くという意識が乏しいんじゃないか?」とかいう話を聞くと、「ああ、ぼくも歳を取ったんだなぁ」などとつくづく思う。太古の昔から、若者に関する愚痴は年寄りの特権である。
 まあ、そういった愚痴が居酒屋談義で終わるのなら、さしたる害はない。しかし、それが政策へと反映されてしまうともはや笑い話では済まない。学力が低下している、命の重さを知らない、ゲームに毒されている、携帯電話のせいで人間関係が希薄化している等々の根拠があまりはっきりしない主張に基づいて政策が実施されたり、法律が変えられてしまったりすることがありうるのだ。

 とりわけ、高齢化が進むとその手の主張は受けが良くなりがちだ。若者に苦々しい思いを抱いている高齢者は少なくない。そのため、たとえ実態からは著しく乖離した方針であっても好意的に受け入れられてしまいかねない。言わば、「昔に比べて若者は駄目になっている」という主張自体に一種の権益があると言ってよい。

 もちろん、そのような若者批判に対しては様々な反論が展開されてきた。学力はそれほど低下していない、少年犯罪は昔に比べてずっと減っている、「ゲーム脳」はトンデモである、などなど。しかし、そのような「若者バッシング批判」が、見落としているものがあるのではないかとの指摘もある。

後藤和智氏とかもそうなんだが、若者の劣化は嘘だ論者って、問題の所在そのものを否定しちゃうところがあるから。都合の悪い事実を指摘するのと、彼らを「いないもの」にしちゃうのと、はてさて本当に彼らを「バカにしている」のはどちらなのか。
(出典)甲虫太郎氏のツイート(https://twitter.com/kabutoyama_taro/status/348718536748826627

 これを読んでぼくが思い出したのが、「モラル・パニック」をめぐる犯罪社会学の領域での論争だ。

 モラル・パニックとはイギリスの社会学者スタンリー・コーエンの研究で注目を集めるようになった概念である。要するに、実際にはたいしたことのない問題をマスメディアが大きく取り上げ、専門家や政治家がそこに介入することで、実態から大きく乖離した大騒ぎになってしまうという現象を指す。日本でもちょっとしたトラブルをマスメディアが大々的に報道し、おっちょこちょいの国会議員が国会でそれに関して質問したりして、大騒ぎになったケースなどが思い出されるのではないかと思う。

 こうしたモラル・パニックに関する研究は数多く行われてきた。たいして犯罪が増えているわけでもないのに、犯罪が増えているかのような印象が生じ、そのことが政治家にうまく利用されてしまった事例などが分析されている。2000年代前半の日本における「少年犯罪の急増・凶悪化」の言説も、一種のモラル・パニックとして位置づけることができる(浜井浩一芹沢一也(2006)『犯罪不安社会』光文社新書など)。

 その一方で、モラル・パニック研究にはさまざまな批判が寄せられている。ここで詳しく紹介することは避けるが、一つだけ「左派リアリズム」と呼ばれる立場からの批判を紹介したい。左派リアリズムは、モラル・パニック研究が犯罪そのものではなく、「犯罪不安」に焦点を当てることを批判する。コーエンは騒ぎを起こす若者の文化についてもきちんと研究していたのだが、彼に続く研究の多くは犯罪者自身ではなく「大したことのない出来事」を大々的に取り上げるマスメディア報道やそれに乗じる政治家や関係団体の動きに注目する傾向にあった。そのため、犯罪の実態そのものから目を逸らしてしまっているというのだ*1。

 犯罪社会学におけるこうした論争を敷衍すると、「若者バッシング批判」は若者論批判にエネルギーを注ぎ、「若者は劣化していない」ということを言い続けることで、結果として今の若者が抱える様々な問題から目を逸らす働きをしかねないということが指摘できるかもしれない。

 「昔と比べて今の若者は劣化していない」ということが事実であったとしても、それは今の若者に何の問題もないということと同義ではない。確かに、このエントリの最初で述べたように、根拠薄弱な若者バッシングに乗っかった政策が展開されるのは困る。しかし、それとは別の次元で、今の若い人たちが抱える様々な困難を分析し、その緩和を試みることは重要な課題ではないだろうか。様々な若者論を批判し、「若者は劣化していない」と言い続けるだけでは、そうした課題に取り組むことはできない。

 ぼくが若いころには、若者批判を読むだけで嫌な気持ちになったものだ。なのに、こんなエントリを書くようになったということは、ぼくもそれだけ歳を取ったということなんだろうな。

(追記 2013/7/4)

甲虫さんのツイートを改ざんするのは良くないと思い、そのままの文面で引用しましたが、このエントリは後藤さん個人に対する批判を企図したものではありません。むしろ、ある対象に関する言説を批判するという営みが、その対象自体について語ることを自体を「意図せずして」妨げてしまいかねないという趣旨のエントリです。

追記2(2013/7/5)

続きというか、関連したテーマでエントリを書きました。http://brighthelmer.hatenablog.com/entry/2013/07/05/191721

*1 もう少し詳しく言うと、モラル・パニック批判は、パニックに乗じて犯罪者に対する厳罰化を進めようとする保守的な政策への批判として展開されていたはずが、「犯罪不安の沈静化」という誤った目標を目指すことで、犯罪の抑止および犯罪不安の沈静化を目的とする「割れ窓理論」のような保守派の議論を期せずして肯定することになってしまったと批判される。