擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

マイノリティを「代弁」すること

 このまとめ(『彼女たちの売春(ワリキリ)』(荻上チキ著)への違和感)を読んだ。

 ぼくは『彼女たちの売春(ワリキリ)』は良い本だと思ったが、やはりこういう感想を持つ人たちもいるんだな、というのが正直なところだ。そこで、ここでは以前からぼくが悩んでいることについて書いてみたい。なお、ここでの話は、売春に限らず一般的なマジョリティとマイノリティとの関係についてのものである。

マジョリティ/マイノリティの3タイプ
 話を単純化するために、ここでは3つの立場に限定して書いてみる。ここで言うマジョリティ、マイノリティは権力関係に基いて決まる。なので、数の上では少数派でも権力を持っていればマジョリティだし、多数派でも抑圧されていればマイノリティである。

A:マジョリティに所属し、マイノリティの抑圧に加担している
B:マジョリティに所属しているが、マイノリティの境遇に同情的
C:マイノリティの当事者

 さて、抑圧されるマイノリティに同情的なマジョリティのメンバー、すなわちBは昔から一定数存在してきた。Bがジャーナリストや研究者であった場合、彼らはCの取材や調査を行い、Cの代弁者となることで問題提起を行なってきた。

同情的マジョリティの選択肢

 ところが、誰かを代弁するというそうした行為そのものが批判されるようになってきた。いくら同情的であったとしても、Bはしょせんマジョリティ の一員であり、彼らの「まなざし」には様々な権力作用がある。

 Cを都合よく分類したり、都合の悪いCの声を黙殺したり、知らず知らずのうちにマジョリティ の見方を当てはめてみたり等々。悪くすれば、Cの困難を飯の種にしているだけではないかという話にもなる。つまるところ、BもしょせんAと同じ穴の狢であり、Cの抑圧に加担している、というわけだ。そこで、C自身の語りが重視されるようになり、Bの介入は余計なお世話だという話になっていく。

 そのような状況のなかで、Bに残された選択肢はどのようなものがあるだろうか。

(1)開き直ってAと一緒に抑圧に加担する
(2)ただただCの言うことに盲従する
(3)Cになる
(4)Aを批判する
(5)穏やかな無関心を決め込む。Cへの共感は示すが、当事者性が問われるような次元にまでは踏み込まない
(6)マジョリティであることを認めつつ、Cにコミットしていく

 言うまでもなく、(1)は論外だ。「表面的にはCに同情する構えを見せておきながら、Cが自分の言うことを聞かないと分かると、権力性をむき出しにする」という、マンガにでも出てきそうなほどに破廉恥な態度である。

 かといって(2)も困難だ。人間である以上、たとえ相手がマイノリティであっても他者の言うことにただ頷くというのはやはり難しい。反論したくなることもあれば、批判したくなることもある。研究者であれば相手の発話を分析したくなることもあるだろう。しかし、それを行うと即座に「やっぱり、あなたはしょせんマジョリティなんだ」という批判を招く可能性は高い。そういう批判を恐れ、言いたいことがあっても言えないような状況が出来てくると、不可避的に閉塞感が生まれる。

 (3)は極端な話かもしれないが、ありえないわけではない。たとえば、学生運動に参加していた人たちの多くは、恵まれた階層の出身だった。そうした出自でありながら「プロレタリアート」を代弁するという、まさにBのジレンマを抱えていたわけだ。そこで彼らが活用したのが自己批判であり総括であった。つまり、総括によって自分たちの内なるブルジョワ性を追い出そうと考えたわけだ。その究極的な帰結が、連合赤軍による内ゲバ殺人である。

 Bが取りうる最善の選択肢が(4)だろう。抑圧される側ではなく、する側に「まなざし」を向ける。無論、「偽善者」「売国奴」等のAからの批判は覚悟しなくてはならないが、それは仕方がない。しかし、たとえば最初に挙げた例のようなケースだと難しい。買春をしている男性がやすやすと調査されるとは思えず、結局は憶測でものを言うしかなくなる。だとすれば、問題を浮かび上がらせるためにはCの取材や調査をするしかないということにもなる。

 また、Bにとってもっとも安易なのは(5)だろう。Cに共感する姿勢を穏やかに見せつつ、実際には深く踏み込まないというスタンスは上品を気取る向きにはもってこいである。言説それ自体が権力なのであれば、最初から語らないのが一番ということにもなる。実際、ぼくを含め、いわゆるリベラルの人たちの多くはここの部分に逃げ込んでいるのではないかと思う。

 逆に、きわめて困難なのが(6)だろう。Aからは「偽善者」などと罵られる可能性が高い一方で、Cからも「Aと同じ穴の狢のくせに」という後ろ弾を撃たれかねない。実際、批判の矛先が不特定多数のAよりも、個人として特定されているBへとより激しく向かう可能性は高い。普通なら「なんで、ここまでサンドバックにならねばならないのか」という思いも湧くだろうし、頭に血が上れば「それなら、 いっそのこと抑圧に加担してやる」という(1)のような発想が浮かぶこともあるかもしれない。むろん、それが破廉恥な態度であることは承知しているので、 疲弊すれば(5)の態度へと移行していくだろう。

「あなたはマジョリティ」という権力

 こうして、(5)の穏やかな無関心の領域へと逃げこんでいく人が増えていくわけだが、それで果たして問題は解決へと近づくのだろうか。発話自体が権力作用を帯びることは否定できないが、自分の意見を広く周知させることができるのもまた権力だ。

 インターネットが普及しても、後者の権力を持つ人とそうでない人との差は歴然としている。有名タレントがツイッターを始めれば、あっという間に膨大な数のフォロワーがつくではないか。そこまでではなくとも、それなりに発言力のある人たちが(5)の領域に閉じこもることは、結果としてマイノリティとマジョリティの権力格差を拡大させることに寄与するだろう。

 結局、ここで必要になるのは、相手の主張を過剰なまでに相手の属性へと還元しないという態度ではないだろうか。「しょせん、あなたはマジョリティなんだ」と発言することは、一種の権力だ。他者の発話を即座に権力の言語へと読み替えてしまうことも、それが沈黙を誘発するのであれば権力として作用しうる。

 むろん、当事者であるCの発話が持つ意味は否定しがたく、またBよりも遥かにCが沈黙を強いられてきたという事実は重い。しかし、Bを沈黙させることで、Cの発話がより広く周知される保証はどこにもない。

 最後に。この文章が「俺らにも何か言わせないと、世の中もっと悪くなるよ」というBによる威嚇として機能しうることは自覚している。しかし、ふるまいや発言が自己の属性へとすぐに還元されてしまうことの息苦しさを、マイノリティだけではなくマジョリティもまた感じうるのだということは記しておきたい。