擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

捏造された「無関心」

 浦沢直樹/画・勝鹿北星/作のマンガ『MASTERキートン』に、「無関心な死体」というエピソードがある(以下、ネタバレ)。

 冒頭、一人の青年がロンドンの路上で死亡する。この件を取り上げた女性ニュースキャスターは、青年が不良グループに襲われて頭を強打し、路上に倒れていたにもかかわらず、そこを通りかかった人びとが通報しなかったことを番組で取り上げる。彼女は言う。「彼を死においやったのは、不良達というより、人々の無関心と冷酷さだったのではないでしょうか」(p.58

 これとよく似た出来事が、実際に起きたことがある。19643月、ニューヨーク郊外で当時28歳の女性が殺害された。彼女は何度も助けを呼び、周囲には家には38人もの人びとがいたにもかかわらず、ただ窓越しに外を見るだけで警察への通報は行わなかった。

 この事件は、『ニューヨーク・タイムズ』による報道をきっかけに大きな反響を呼び、そこから様々な社会心理学実験が行われることになった。なぜ、人びとはそんなにも無関心だったのかを明らかにしようとしたのである。

その結果、「居合わせる人びとの数が多いほど、かえって援助行動が起こりにくい。自分がしなくても他人がやるだろうと責任感が希薄になり、犯罪を阻止したり援助の手を差し伸べる心理が鈍るからだ」といった知見が報告されるようになった(小坂井 2008: p.43)。こうした発見は、集団的な無責任がなぜ発生しうるのかを説明するうえできわめて有意義だと言いうる。

 ところで、最初に紹介した『MASTERキートン』のエピソードには続きがある。主人公キートンは、路上で死んだ青年が「不良グループに襲われた」という前提を疑い始める。そして、実は青年は自然死だったのではないかとの結論を導き出す。それを聞き、最初に問題を取り上げたニュースキャスターは言う。「すっかりロンドンを悪者にしてたわ…」(p.77

 そして、ニューヨーク郊外での殺人事件に対する人びとの無関心もまた「捏造」だったのではないかとの疑惑がある。『ニューヨーク・タイムズ』が人びとの無関心さを誇張して報道したのではないかというのである。まず、「38人」という数字が大幅に水増しされている。「何が起きているか目撃していて、証言できる人は6人しか見つけられなかった。」

 しかも、実際には警察に通報した人もいたのだという。ところが、警察に電話がつながるまでに時間がかかったうえ、被害女性が自力で歩行していることを告げたこともあり(暗がりで出血していることは見えなかった)、警察側はそれほど深刻な事件だと考えず、対応も鈍かった(レヴィット・タブナー 2009=2010: p.166)。

 無論、目撃者が自分たちの責任を軽減するために偽って証言している可能性もあり、真相は藪の中である。ただし、この女性を殺害した犯人がつかまったきっかけが興味深い。事件の数日後、この犯人はある家に泥棒に入っていた。そのことに気づいた近所の人が、警察に通報するとともに、犯人の逃走を妨げたために逮捕されたのだという。

 この二つのエピソードを紹介したのは、大都会というのはとかく悪者にされがちだということを示したいからだ。相互の無関心が苦しんでいる人を傍観するだけの態度を生み、公共性を損なわせるという論法はあちこちで展開され、それが誇張されることが結構ある。

 ただし、そうした大都会の無関心さを誇張することが必ずしも悪い結果だけをもたらすとは限らない。先にも述べたように、ニューヨークでの一件は、様々な社会心理学実験の契機となり、そこでは貴重な発見もなされている。

 また、リチャード・ローティは「私たちがある人の歓喜や苦難に気を留める見込みが増すのは、別の人が驚くほど無関心であることを知って、注意がそこに向けられる場合だろう」と述べている(ローティ 1989=2000: p.328)。すなわち、「周囲が無関心だからこそ自分がなんとかせねば」という発想は、利他的な行動を導くうえで重要な契機となりうる。無関心な一般大衆との対比において、「苦しんでいる人たちに関心を向けることができる良心的な私」という自己アイデンティティの形成につながるからだ。こう考えれば、人びとの無関心さを誇張することには、一定のメリットがあると認めなくてはならない。

 しかし、そうした誇張は、先のニュースキャスターの言を借りれば「すっかりロンドンを悪者に」するような態度を生む。つまり、「良心的な私」と対比されるかたちで「利己的で自分勝手な人びとに満ちた社会」というシニカルなイメージを温存してしまうのだ。

 そこでようやく論点が明確になる。人は果たして、社会を悪者にすることなく、他者の苦しみへの関心を持つことができるだろうか?

 僕にはその答えがまだない。

 

【引用文献】

浦沢直樹画、勝鹿北星作『MASTERキートン(5)』小学館、1990

小坂井敏昌『責任という虚構』東京大学出版会、2008

レヴィット・スティーヴン、ダブナー・スティーヴン、望月衛訳『超ヤバイ経済学』東洋経済新報社2009=2010

ローティ・リチャード、斎藤純一ほか訳『偶然性・アイロニー・連帯』岩波書店1999=2000