擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

ガッサン・ハージ『希望の分配メカニズム』

 ガッサン・ハージ、塩原良和訳(2003=2008)『希望の分配メカニズム パラノイアナショナリズム批判』(お茶の水書房)という本を読んでいる。基本的にはオーストラリア社会についての分析なのだが、読んでいると今の日本社会の状況との類似に驚く。以下で少し紹介してみたい。

 ハージはオーストラリアが「戦時社会」化していると主張する。戦時社会では「わたしたちに味方するか、さもなくばおまえは敵だ」という二分法が蔓延する。「味方」になるためには、思考停止し、ただ命令を実行することが求められる。そのため、「実行することについて考えること」を生業とするような業種、つまり批判的知識人などは格好の攻撃の対象となる。以下、引用してみよう。

 「こうした状況のなかで、実際に(社会のあり方について:引用者)反省したり批判したりしようとする人々は、『現実生活』とは無縁のおしゃべり屋だと、みなされるようになる。つまり、『学者先生』―そこではこの言葉は、劣等な存在状態を意味している―ということである。」

「学者先生たちは、現状の緊急性から距離をとっているがゆえに、連帯が議論の余地なく必要とされているということを理解しようとしないとされる。緊急に行動することから距離をとり、無駄なおしゃべりに興じることは、時間的余裕のある人々だけに許された贅沢だとみなされる。」

「それゆえ批判的知識人は、一般大衆を見下し、一般大衆が関心をもっている言を馬鹿にしているエリート階級として描かれる。…こうした(知識人と大衆との:引用者)分断は、なによりもまず、行動から距離をとる人々と、ほとんど反省することなく行動する人々のあいだの分断である。」

「(知識人を非難する人々は:引用者)主張する。『俺たちの上に立って、説教するな。おまえのいるところ、そんな上のほうからでは、何がどうなっているのかわからないだろう。ここに降りてこい。この大地の上に。そして、何が起こっているのかを知るために、この戦争を戦え。おまえは好きなだけおしゃべりをしていられるだろうが、おまえは自分だけの世界に閉じこもっているんだ。俺は、ほんものの世界と向き合っているんだ。』」(pp.107-108より引用)

 批判する学者に向かって「いつでもポストを用意する」と言い放つ、どこかの市長を思い出させるではないか。

 ハージによれば、このような「自分はほんものの世界を知っている」という思い込みは、世界に対する異なる視点や視座を許容しない。

「あなたが誰だろうが、あなたがどんな専門知識をもっていると主張しようが、あなたは市民/戦士たちに、新しいことは何も伝えられない。」

「こうした状況においては、人々の信条に異議を唱えようとする批判的知識人は、単純な話、誰にも話をきいてもらえない。その代わり、自分たちが『本質的に善」であるという、人々のもつ自己観を原則として反復して追認するだけの『追認主義者』とでもいうべき知識人が台頭することになる。追認主義的知識人たちは、既存の知識に異議を申し立てるような新しいことを言うことによってではなく、同じ内容を違うやり方で繰り返すことで、聴衆や読者を満足させる。」(pp.109-111より引用)

 ハージの分析は、どこかの市長だけでなく、いわゆるネットウヨク的な言説にも見事に合致するところがあり、読むに値する一冊だと言えるのではないだろうか。いや、僕もまだ半分ぐらいしか読んでないんだけどね。