擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

「弱者男性」をめぐる境界線

 さいきん、ネットでよく「弱者男性」にかんする主張を目にするようになった。フェミニズム運動が活発化するなかで、「男性」と一括りにされ、「権力をもつ側」に位置づけられることに対する反発だと言えるのではないかと思う。この問題については、以前にもこのブログで書いたことがある

 「虐げる側の男性」と「虐げられる側の女性」という対立図式では、男性のなかでも虐げられている集団が見えなくなってしまう、という問題意識がそこにはある。そこから、フェミニズムを支持する人びとに対するさまざまな批判が展開されている。

 政治的、社会的な対立が発生した場合、重要なのは「どこに境界線を引くか」である。かつてのように労働運動が華やかなりしころであれば、その境界線はまず「資本」対「労働者」との間に引かれるものであり、その境目はそれなりに明確であった(企業内労組等々の話はややこしくなるので、ここでは省略)。

 ところが、労働運動が後退し、それに代わってさまざまな社会運動が立ち上がるようになってくると、どこに境界線を引くべきかが重要な問題になってくる。境界線の引き方しだいでは多くの人びとの支持を獲得できる一方、別の引き方をすれば特定の集団を孤立させることもできる。

 たとえば、鉄道ストライキが「苛酷な労働を強いる資本」対「劣悪な環境に置かれた労働者」との線引きで捉えられるか、それとも「ストで不便を強いられる乗客」対「迷惑をかえりみないストライキ参加者」との線引きで捉えられるかで、その印象は全く変わってくるはずだ。

 このように人間集団のなかにはさまざまな境界線を引くことができる。そして、そのなかでどの線を目立たせるのかを決めるのが、まさに政治なのだ。

 この点について、政治学者の杉田敦さんは次のように述べている。

交差した境界線のうちどれが優勢になるのかは、事実上の力関係によって決まる。もう少し正確に言えば、どの境界線を支持するような実践を人々がより強力に行っているかが決め手となる。例えば、国境が相対的に他の境界線よりも重要であると多くの人々が考え、宗教や民族や階級などの他のありうる境界線よりもそれを重視する行動をとるならば、そのかぎりにおいて、国境は強固となる。

(出典)杉田敦(2005)『境界線の政治学岩波書店、p.20。

 ぼくの研究テーマに即していえば、戦前の英国によるインド統治では、英国人が被支配者のあいだの境界線を意図的に顕在化させることで、彼らが団結して英国に対抗してこないよう工夫していた。しかも、「彼らはお互いに仲が悪いから、自分たちがいないとすぐに内戦になってしまう」という論理を展開することで、植民地統治の正当化までしてしまう。分断統治とはこういう風にやるんだ!と思わずいいたくなるほどの手腕だ。

 話を戻すと、「弱者男性」についても、どこで境界線を引くかで、その議論の方向性は大きく変わってくることになる。たとえば、社会のなかの様々なポストや仕事をゼロサムゲーム的に捉えれば、つまり女性が何かを得れば男性が損をするという図式で捉えるなら、「男性」対「女性」という図式が前面に出でこざるをえなくなる。

 他方、そうした図式を離れて、資本からより多くの賃金や好待遇を引きだすための闘争として捉えるなら、そこでの境界線はかつてのように「資本」あるいは「政府」と「労働者」とのあいだに引かれることになるだろう。「弱者男性」と「弱者女性」とが同じ陣営に属することになり、そこには共通の利益も生まれることになる。

 もっとも、そうなると今度は「正規労働者」対「非正規労働者」とのあいだに境界線が引かれて、そこに横滑りしていくという可能性もある。そこでは、正規労働者の待遇を悪くするかわりに非正規労働者の待遇を改善する…という別のかたちでの分断統治が発生したりもするのだが、ここでは触れない。

「結婚していない」ことがアイデンティティを傷つける

 労働という面ではなく、恋愛や結婚という観点から考えると、話はもっとややこしくなる。まず、恋愛や結婚ができないということが人びとを深く傷つけてしまうという問題は確かにある。以下は社会学者の数土直紀さんによる 「社会階層と社会移動全国調査(SSM調査)」の結果にもとづく分析だ。

結婚しないで未婚のままでいることは、その人の生活満足度を下げてしまう。これは、1980年代の頃と変わらない。もしほんとうに結婚するかしないかは本人の自由であり、ただ本人の選好だけによって配偶者の有無が決まっているのだとすれば、このような関係をみいだすことはできないはずである。このような関係があらわれるのは、やむをえず未婚にとどまっているひと(いいかえれば、結婚をしたくてもできない人)が少なからず存在しているからだと考えられる。そしてさらに、2010年代になると今度は「結婚しないで未婚のままでいる」ことが階層帰属意識をも下げてしまうようになったのである。つまり、1980年代の頃とは異なり、未婚状態は生活に対する満足度を下げるだけではなく、そのひとの(階層)アイデンティティをも傷つけるようになってしまったのである。

(出典)数土直紀(2013)『信頼にいたらない世界 権威主義から公正へ』勁草書房、p.74。

 階層帰属意識とは、要するに社会のなかで自分がどのランク(上、中の上、中の下、下の上、下の下)に位置しているのかという主観的な意識を指す。学歴や職業などがそういった意識に影響を及ぼすのだが、「結婚している/していない」も影響を及ぼすようになったというのだ。社会的地位では評価されているような人が、結婚していないという一点で「自分は負け組」だと感じるかもしれない、ということでもある。

 上記の調査結果は男女別には示されていないが、男性のほうが生涯未婚率が高いことを踏まえると、男性により多く生じやすい現象だと言えるだろう。

 それでは、なぜこういう現象が生まれるのか。重要な要因としては、恋愛または結婚が、人間としての評価と深く結びついてしまったということがあるだろう。つまり、「モテない」ということが、そのまま自分には何らかの欠損があるという自己評価につながってしまうということだ。

 個人的な体験談でいえば、自分の能力に対する不信感も相まって、大学生のときにはこういう劣等感にものすごく強く苛まれていた。女性から選ばれないということは自分の容姿や人格に深刻な問題があるのではないか…という悩みだ。今にしてみれば、大変に浅はかではあるのだが、世間的には「モテる」と言われている大学に通っているはずなのに、なぜ自分は全くモテないのか…という思いもあったことも告白しなくてはならない。

非モテ」問題はいかに解決されるのか

 では、これを社会の問題として、いかに解決していくべきなのか。一つの方向性としては、モテるように努力せよ、というネオリベ的な解決案がある。恋愛市場において選ばれるよう市場価値を高めよ、というやつだ。

 しかし、個人で努力するぶんにはさておき、社会の問題をそういうノウハウへと落とし込んでいく解決策には賛同しかねる。

 もっと過激な方向として、「モテない男性に女性をあてがう」という女性の人権を全く無視した方策も考えらえるかもしれない。ただ、それは近代社会をやめるという覚悟がないと採用できないし、万が一実現したとしても、解決をめざした問題とは別の問題や苦しみが生じるのは確実だ。

 それ以外の方向としては、個々人の自由意志を妨げない範囲で、恋愛や結婚の機会を増やすということも考えられる。それはマッチングアプリなど、商業ベースですでに様々な試みがあるのだが、強制性を欠く以上、結局は恋愛市場的な話に落ち着かざるをえない。おそらく根本的な解決にはつながらないだろう。

 だとすれば、さらに別の方向性として、そもそも恋愛や結婚と人間としての評価が結びついているという状況を改めていくよりほかないのではないか。つまり、時間はかかっても、恋愛や結婚をしていなくても恥じ入るようなことではないという価値観を涵養していくという方向性だ。実際、近年のエンタメ作品のなかには、こうした方向性をかなり明確に打ち出しているものもあるように思える。この方向性であれば、さまざまな性や立場の人が賛同できるはずだ。

 もっとも、仮にこうした方向で考えるとしても、先に述べた境界線の問題はおそらく避けられない。未婚や少子化を国家の問題として捉え、これを解決すべき問題とする立場とは、どうしても相性が悪くなってしまうからだ(絶対に対立する、というわけではないと思うが…)。そこでの境界線は、恋愛や結婚を推奨する社会的圧力を維持したいという立場と、そこから自由になろうとする立場とのあいだに引かれることになるだろう。

 先に述べたように、この問題でどこに境界線が引かれるかは、今後とも激しい論争が繰り広げられていくだろうし、ぼくが思いもよらないところに対立軸が設定される可能性もあるだろう。

 いずれにせよ、「弱者男性」の存在は、社会の問題たりうる一方(それを存在しない問題だとは言いたくない)、フェミニズムとの衝突が不可避だというわけではないということは強調しておきたい。