擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

「女神」はなぜ問題なのか

メディアの注目を集めた少女の声

2014年7月、イスラエル軍によるガザ地区侵攻が開始された。そのさいに国際的な注目を集めたのが、ガザ地区に暮らす一人の少女のツイートである。

少女の名はファラ・ベイカー、当時16歳であった。彼女は得意の英語を駆使して、紛争地域で暮らす自身や家族の心情、周囲で起きた出来事についてのナラティブ(語り)を立て続けにツイートした。

イカーのツイートは海外のメディアにも取り上げられるようになり、イスラエルに対する反発を強めるうえで大きな役割を果たしたとされる。

もっとも、ガザ地区から英語で情報を発信したのはベイカーだけではなかった。それではなぜ、彼女のツイートは大きな反響を呼んだのか。

この点について、デイヴィッド・パトリカラコスは著書のなかで次のように述べている(パトリカラコスはベイカーを一貫してファーストネームのファラと呼称しており、なんとなく気持ち悪いのだが、ここでは原文のまま引用する)。

…ファラを特別な存在にしたのは彼女がファラだったからだ。若くてテレビ映りがよく、か弱い少女であり、肌も白い。そしておそらく西洋の視聴者にとって最も大きなポイントは、ファラが青い目をしていたことだろう。…もしあご髭を生やした浅黒い肌の40男が、同じような受難のナラティブをツイートしたところで、ファラほどの関心は掻き立てなかったに違いない。
(出典)デイヴィッド・パトリカラコス、江口泰子訳『140字の戦争』早川書房、p.53。

パトリカラコスの上記の指摘はおそらく妥当だ。以前からこのブログで何度か言及している、犯罪被害者のなかで多くの人びとの同情を集める条件の一つに「脆弱であること」が含まれていることにも通ずる話だろう。実際、パトリカラコスが指摘するように成人男性がこういった文脈で同情を集めることは難しいと言わざるをえない。

ただし、ここで言いたいのはそれが不公平だということではない。実際のところ、政治や戦争という場において、外部からの同情を集めるという文脈以外ではもっとも力を持たないのがベイカーのような存在なのであり、「若い女性の声ばかりが取り上げられるのはずるい」というのは、メディア上での露出だけに目を奪われ、そうした構造の存在が見えなくなっているだけの話である。

このエントリで論じたいのは、そうした構造があるにしても、紛争であれ政治対立であれ、特定の人物に関心が集中しすぎてしまうことの弊害である。

「誰が言ったか」ではなく「何を言ったか」

イカーのような存在は、たしかに遠く離れた地域での出来事に対して無関心に流れやすい一般の人びとの注目を集めるうえでは役に立つ。だが、そこにはいくつかの問題がある。

一つは、コミュニケーションの問題だ。

人びとが対等な立場で語り合える空間としての「市民的公共圏」のモデルに従えば、そこでは「誰が言ったか」よりも「何を言ったか」が重要だとされる。つまり、どんなに偉い人物であろうとも下らないことを言えば批判されたり、スルーされる一方で、無名の人物であっても優れた発言をすれば注目されるということだ。

もちろん、これは「あるべき姿」であって、現実のコミュニケーションはそんなふうにはできていない。凡庸なものであっても芸能人のツイートは大きな注目を集めやすい状況を見れば、「誰が言ったか」よりも「何を言ったか」が重要だと言っても空しくなるだけである。

それでも、発言者の年齢、肌の色や目の色といった属性によって発言力が異なるという状況は、たとえ注目を集める立場にある側にいたとしても、つねに望ましいとは限らない。

仮にベイカー本人と話をする場合に「あなたのツイートが注目を集めたのは、あなたが若くて、肌が白く、目が青いからだ」と言い出せば、あまりに礼を欠いた振る舞いということになろう。

ある人物の発言の価値をその属性に還元させ続けることは、その人がどれだけ自身の発言に工夫をこらそうとも、勉強して知識を増やそうとも、その努力を否定することになってしまうのだ。(したがって、何らかの属性によって注目が集まるという現象は確かに存在するとしても、それを当の本人には言わないほうがよいだろう)
 

問題の全体像が見えなくなる

そして、特定の人物が過度の注目を集めることのもう一つの弊害は、問題の全体像がかえって見えづらくなってしまう可能性があるということだ。

一例を挙げると、1993年7月、英国のBBCボスニア・ヘルツェゴビナ紛争においてイルマという当時5歳の少女が負傷し、国外でなければ治療できないという報道を行った。この報道が大きな反響を呼び、当時の英国首相であるジョン・メージャーは「イルマ作戦」を決行している。この作戦によってイルマを含む数十人の子どもたちが飛行機で英国へと輸送され、治療を受けることになった。

このこと自体は「イイ話」であるようにも思える。だが、この作戦において大人は支援対象から外されたのみならず、たまたまメディアで取り上げられた少数の子どもばかりに注目が集まった結果、その背後にいる膨大な数の人びとの苦しみから人びとの関心が逸らされてしまったという批判も行われている。つまり、イルマが紛争地から救い出されたことで(もっとも、集中的な治療も空しく、その後に彼女は亡くなっている)、あたかも紛争全体が解決されたかのような錯覚が生み出されてしまったというのだ。

パレスチナ紛争であれ、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争であれ、気候温暖化であれ、香港の民主化運動であれ、複雑な問題を伝えるにあたって特定の人物に注目するという手法は、たしかに明快なストーリーを提供してくれる。したがって、それを全否定するつもりはないが、そのリスクを踏まえたうえで、より大きな構造へと目を向けさせる努力があってほしいとは思う。