擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

歴史を取り戻すためには

 「歴史学者から歴史を取り戻そう」という主張が話題になっている。以前から一部でそういう主張は行われてきたわけだが、またしても注目を集めているようだ。

 ぼくは歴史学をちゃんと学んだわけではない。だが、過去の事象をテーマにした論文を書くこともあり、おこがましいことは承知のうえで、思うところを少し書いておきたい。

いかにして研究を始めるのか

 研究者といわれる人の多くは大学院で研究の手法を学び、そこから専門家としてのキャリアを積んでいく。大学院入学者のかなりの部分は、壮大なテーマを掲げて入学してくる。それ自体は決して悪いことではないが(やりたいことがはっきりしない方が指導する側としては困る)、なにせ壮大すぎる。「このテーマで書こうとすれば、少なくとも10年はかかるんじゃない?」という話になる。だが通常、修士論文は2年で書き上げねばならない。

 研究を進めるうえでもう一つ重要なのは、「オリジナリティ」が必要だという点だ。博士課程まで進むのであれば、修士論文の段階ではそれほどオリジナリティにこだわる必要はないと個人的には思うのだが、それでも既存研究と比べてまったく目新しさがないというのはさすがに困る。

 そこで用いられるのが、研究のフォーカスを絞ることで、必要となる作業量を減らしつつ、オリジナリティを出すという方法だ(ぼくの師匠はよく「一点突破全面展開」と言っていた)。最初から壮大なプランをぶち上げて、いきなり大作を書こうとするのではなく、まずは既存研究の壁が比較的薄いところを探し、その部分を集中的に研究するというやり方である。

 こういった方法を「重箱の隅をつつく」ような研究と揶揄する向きもあるが、細かいポイントに集中する研究を重ねていくことで、やがては点が線になり、緻密でありながらもスケールの大きな研究へと発展していく…(といいな、と思う)。

 ともあれ、研究において重要なのは、既存研究の壁をどうやって打ち破るかということだ。分野によっては蓄積された研究を読むだけで年単位の時間がかかるほどに既存研究の壁が分厚い領域もある。しかし、研究者を目指すのであれば、この部分をおろそかにはできない。オリジナリティを出すには「これまでに何が明らかにされたのか」を知っておくことが必要不可欠だからだ(そうでなければ、いわゆる「車輪の再発明」になってしまう)。

「既存研究からの自由」がもたらす逆説

 とはいえ、学問的な方法に馴染みの薄い人からみると、いちばんイライラするのがこの部分ではないかと思う。自分が論じたいテーマはあるのに、まずはそれについて書かれた多数の論文や著作を読まねばならないというのは非常にまどろっこしい。そこから、それらを読まずに済ますための方法に対するニーズが生まれる。

 そこで出てくるのが、「既存研究は読むに値しない」という発想だ。それによれば、既存の「研究」ははじめから歪んでいる。「自称研究者」は頭がものすごく悪いか、邪悪なイデオロギーに毒されている。だとすれば、既存研究など読まないほうがいい。むしろ、才能があり、学問などというものに汚されていない自分のほうが「真実」へと容易に到達できる。既存研究を無視するのだから、オリジナリティについても気にしなくていい。

 しかし、自分では読んでもいない研究を「読まなくてもいい」と判断するためには、そう言ってくれる別の誰かの言葉を鵜呑みにする必要がある。すなわち、この発想は既存研究を読むという作業からは解き放ってくれる代わりに、別の誰かへの服従をもたらすのだ。「歴史学者から歴史を取り戻そう」という発想は、権威への反逆であるように見せかけながら、実際には別の「権威」へと歴史を譲り渡してしまうことに帰結してしまう。

歴史を取り戻すためには

 もちろん、既存研究に触れたくないより重要な理由として、「読みたいことを書いてくれない/読みたくないことが書いてある」ということがあるだろう。厳密な文章を書こうとすれば、まどろっこしくなったり、奥歯に物が挟まったような言い方になりがちだし、スパッと割り切るような断定も難しくなる。歴史の影の部分にまで光を当ててしまうかもしれない。対して、そういった予防線を張る必要性がないのであれば、「歴史の真実」を簡単に、大胆に、時に感動的に語ることができる。

 とはいえ、このように二項対立的に論じてしまうと、誤解をもたらすかもしれない。あたかも研究者が書いたものが面白くなく、それを否定する書き手が書いたものは面白いという図式を描いてしまいかねないからだ。

 たしかに研究者の書いたものには、小説的な盛り上がりは乏しいかもしれない。けれども、めちゃくちゃに面白いものを書く研究者はたくさんいるし、自分がもともと持っていたイメージに別の角度から光を当ててくれるような文章に出くわしたときには感動しさえする。ただ悲しいかな、そういった地道な面白さは、センセーショナルなマーケティング手法を前にすると、どうしても霞んでしまいがちだ。

 しかし、せっかく歴史に興味があるのに、誰かの言葉に乗せられて「学者の書いたものなど読むに値しない」と考えるのであれば、それはあまりにもったいない。読めば得られるはずの知識が奪われているのと同じだからだ。だから、いま必要なのは、そのような知識の簒奪と戦うことなのではないだろうか。

 それがたぶん、本当の意味で、歴史を取り戻すことなのではないかと思う。