擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

拙著『ナショナリズムとマスメディア』について

これは「ステマ」ではない

 「ステマ」という言葉は、消費者のフリをして特定の商品やサービスの購入に他の消費者を誘導することを指す。以下の文章は、本を買って欲しい、あるいはせめて最寄りの図書館にリクエストを出して欲しいという著者の切なる願いの反映であり、あえて言えば宣伝文である。

 したがって、これは「ステマ」ではない。

ナショナリズムとマスメディア」事始め

 ぼくが「ナショナリズムとマスメディア」というテーマで研究を始めたのは、1995年のことだ。当時、ぼくは大学3年生だった。

 もともとは国際的な経済格差に関心があり、たまたまマスコミュニケーション論のゼミを志すことになったことから、ゼミに入るための選考では情報発信力の国家間格差というテーマでレポートを書いた。

 その後も同じテーマで研究を進めるべく本を読んでいたのだが、そこで出会ったのがベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』という本だった。ナショナリズム論の古典とも言われる著作である。

 アンダーソンの著作と出会ったぼくは「国際コミュニケーションについて研究するためには、まずはナショナリズムについて学ばねばならない」と考えたのではないかと思う(たぶん)。そこでまずは「ナショナリズムとマスメディア」というテーマで論文を書くことにした。学生論文集の寄稿者をちょうど募集していたからだ。

 この論文を書き始めた当時は、国民国家論ブームだった。冷戦が終結し、新たな世界秩序の模索が続くなかで、基本的な政治単位である国民国家の問い直しが進められていたことがその背景にあったのではないかと思う。そこでは、国民国家がいかにして人びとを「国民」という枠に閉じ込め、そこに包摂されないマイノリティを抑圧してきたのかを告発するという論調の議論が多かった。ご多分に漏れず、ぼくもそうした国民国家論の影響を強く受けた。

 その影響は、ぼくが書いていた論文の結論部分に強く現れた。今にして思えば白黒をつける必要は全くなかったわけだが、当時のぼくはナショナリズムをどう評価すべきかを論じねばならないと考えていたのだ。ナショナリズムを肯定すべきか、それとも否定すべきか。

 一方には、ナショナリズムの重要性を熱く語るアンソニー・スミスのような論者がいて、他方にはナショナリズム国民国家を厳しく批判する国民国家論がある。当時、人間関係にやや疲れていたぼくには、なんとなく後者が魅力的に見えた。ナショナリズムの醸し出す同調圧力みたいなものが、どうしても好きになれなかったのだ。

 学生時代のぼくは、「飲み会では吐いても飲み続け、場を盛り上げろ」等々の同調圧力が苦手だった。空気を読まずに異論を唱えて、うざがられることもあった。ぼくにはそれらの同調圧力と、「挙国一致で敵国に立ち向かうべし」というようなナショナリズムの論理とが地続きに見えた。

 だから、この論文の最後の部分で、ぼくはナショナリズムを「乗り越えられるべきもの」として論じた。

ナショナリズムを肯定する

 それから20年以上にわたって、ナショナリズムとマスメディアというテーマはぼくの研究生活における中心的なテーマであり続けてきた。そして昨年、ようやく『ナショナリズムとマスメディア 連帯と排除の相克』(勁草書房)という著作を上梓することができた。さんざん遠回りしてようやく、なんとか一冊にまとめた感じである。

 ただし、20年前とは変わった点もある。この著作でぼくは、はなはだ腰が引けたかたちではあれナショナリズムを肯定的に論じることになった。ちょっとした「転向」と言えるかもしれない。

 もっとも、「転向」それ自体は、ぼくが大学院生だったころにすでに起きていた。ナショナリズムの勉強を進めるほどに、それがどれだけ自分たちの生活のあり方を規定しているのかを認識するほどに、ナショナリズムを全否定するのは難しいと感じるようになったのだ。加えて、イギリスに留学し、さまざまな国からの留学生に囲まれて暮らすなかで、自分が日本人だという事実からは逃れられないと感じたことも大きかったように思う。

 もちろん、だからと言って「ワールドカップの中継を見ないのは非国民」式の同調圧力が好きになったわけではない。むしろ、人びとがお互いの生活を支え合うための論理としてのナショナリズムを肯定しつつも、それに不可避的に伴う同調圧力をいかに抑制しうるかがぼくのテーマの一つになったと言っていい。

マスメディアという観点から考える

 学部生のころからマスコミュニケーション論のゼミに所属していたこともあり、ぼくの研究においてマスメディアの問題は重要なテーマであり続けてきた。

 マスメディアがナショナリズムを高揚させることは珍しくない。同胞を称賛し、他国への憎悪や蔑視をかきたてる。あるいは、自国民をきわめてネガティブに描くことによって、改革の必要性が訴えられることもある。

 たとえば、寛容な福祉制度のせいで国民がすっかり堕落してしまった(だから、制度の改革が必要だ)というタイプの主張を保守的なメディアが展開することは珍しくない。「GHQによる洗脳のせいで戦後の日本人は骨抜きになってしまった」という言説をそこに入れてもいいかもしれない。

 もっとも、マスメディアの役割はそれにとどまらない。われわれの多くは、遠く離れたところに暮らす、見たことも話したことも、名前すら知らない人を同じ国民だと認識する。そうした「想像の共同体」が生まれるうえで、活版印刷によって可能になったプリント・メディアがきわめて大きな役割を果たしたというのがベネディクト・アンダーソンの主張だ。

 さらに言えば、身の回りの出来事や、もっと規模の大きな出来事をわれわれが理解し、解釈するうえで、国民共同体は基本的な枠組みを提供している。「日本は…」「中国は…」「アメリカは…」といった国民共同体の単位で政治や経済を語ることは日常的な営みであり、マスメディアはそうした認識の枠組みを「当たり前のもの」として日々、再生産している。

 このようにナショナリズムについて考えるうえでは、マスメディアの役割について考えることは重要な課題であり続けている。もちろん、近年においてメディア環境は大きな変化を遂げており、それを勘定に入れる必要があることは言うまでもない。

激変するナショナリズム

 ここ数年、ヨーロッパやアメリカではナショナリズムの高揚がさかんに論じられるようになっている。ヨーロッパ各国における排外主義政党の台頭、イギリスのEUからの離脱、トランプ大統領の「アメリカファースト」など、グローバル化の潮流に反し、国境を越えるヒト・モノ・カネ・情報の流れに対抗しようとする動きが目立つようになっている。

 このような反グローバル化の運動というのは、かつては左派的な色彩が強く、いまもその潮流は残っている。ところが、近年において目立つのは、むしろ右派からの反グローバル化の動きである。

 そもそも、近年の動きを従来の右や左といった対抗図式だけで考えると、見通しを大きく誤ることになる。たとえば、従来の図式で言えば、右が福祉国家化に反対し、左がそれに賛成するという構図が一般的だった。ところが、近年のヨーロッパにおける極右政党の多くはむしろ、福祉制度を移民による「タダ乗り」から守るために外国人排斥を訴えている(実際には、移民が福祉制度を濫用しているという証拠は乏しく、納税などの面での貢献を踏まえると経済全体ではプラスに働くという見解が有力である)。

 あるいは、左がLGBTを積極的に支援し、右がそれに反対するという構図があったとするなら、それもまた揺らいでいる。イスラム教はLGBTに差別的だという理由でムスリムの排斥を訴える政党が支持を集めるケースもあるからだ。

 これとは少し異なる問題として、労働者階級に対する偏見を煽り立てるうえで人種主義批判が用いられることもあるのだという。イギリスの若き論客であるオーウェンジョーンズはその著書『Chavs』のなかで、同国の労働者階級の人びとに対する偏見や蔑視がいかにメディアで流通してきたのかを告発している。ジョーンズの議論のなかでもとりわけ印象的なのが、「労働者階級の連中は人種主義的だ」というタイプの差別である。言わば、ムスリムであれ、労働者階級であれ、「連中は差別的だ」ということが差別の理由づけに用いられるという現象が生じているのである。

 このようにナショナリズムや差別の論理が大きな変化を遂げるなかで、われわれはナショナリズムとどう付き合うべきなのか、そこでマスメディアはいかなる役割を果たしうるのか、という問題意識のもとで執筆されたのが、拙著ということになる。前半ではナショナリズムとマスメディアに関する学説史を辿りつつ、後半ではより近年の諸問題にひきつけて考察を行った。

 ただし、出版助成を受けていることもあり、お求めやすい価格では決してないし、内容的にも読みやすい著作だとは言えない。実際、発売より二ヶ月近く経ったものの、Amazonでの売上げも芳しくないようだし、書評も一向に出ない。

 だが、本を出版した以上、それを一人でも多くの読者のもとに届ける責任は著者にもある。そこで、恥を忍んで、このような一文をしたためた次第である。

 なお、本書は出版助成を受けているので、増刷でもかからない限り、著者のもとに印税は一銭も入ってこない。しがって、「こんな奴を儲けさせたくない」という心配は無用である。

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