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擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

『何者』が描く「メタ目線王決定戦」

以下は、朝井リョウの小説『何者』に関する文章であり、物語の核心に触れています。なので、小説や映画を未読、未視聴の方で、ネタバレは困るという方は読まないようにして下さい。

 昨日、ツイッターを見ていたら、劇場版の『何者』が熱く語られているのが目に入ってきた。

twitter.com

 劇場版はまだ見ていないのだが、先日、原作となる小説を読んで思うところがいろいろあった。そこで、ぼくの観点から見た小説『何者』の面白さについて論じてみたい。

 『何者』とは、就職活動中の大学生を登場人物とする小説だ。海外留学やインターンシップという「実績」を武器に就活に挑む学生、画一的な就活に疑問を呈し、クリエイティブな生き方を模索する学生、大学を辞めて好きな演劇で生きることを選択した元学生、そしてそれらの人びとを冷静に分析する主人公によって物語は展開していく。

 そして、『何者』において非常に大きな役割を果たしているのがツイッターである。登場人物はそれぞれにツイッターアカウントを持っており、作中でもしばしば登場人物によるツイートが紹介される。

 ぼくが見るところ、この作品の最も重要なテーマは、それらのツイートがいかなる「目線」でなされているかということだ。

マスメディアをめぐる「メタ目線」

 いきなり手前味噌で恐縮だが、拙著『メディアは社会を変えるのか』世界思想社、2016年)の「おわりに」で、次のような図を提示した。

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 理解しづらいとは思うのだが、これはマスメディアをどの目線から眺めるかを図示したものだ。抽象的な話になるが、少し我慢していただければと思う。

 左側の「操作者の目線」というのは、ちょっと大げさだが、マスメディアのメッセージを生み出す側の目線であり、「こういうふうに作れば、番組が視聴者にウケるのではないか」とか「この情報をニュースでうまく伝えるには、こういう角度から切り取ればよいのではないか」といった目線を意味している。

 他方、右側の「批評者の目線」とは、マスメディアのメッセージを受け取る側の目線を指す。「この番組、つまんね~」とか「この筆者の主張は納得できる」とか、読者や視聴者はメッセージに対してさまざまな感想を抱く。

 そして、「操作者」と「批評者」のあいだに位置するのが、「分析者の目線」だ。これは、マスメディアとその受け手との関係を分析的な立ち位置で眺める目線を指す。これだけマスメディアが普及した世の中では、多くの人たちがこの「分析者の目線」を持っている。「日本人の大多数はマスゴミに騙されている」とか「偏向報道のせいで真実が伝わらない」といった主張は、この「分析者の目線」から発せられていると言ってよい。

 マスコミュニケーション研究では、こうした「分析者の目線」を、さらにメタな立場から分析しようとする理論が存在する。それが第三者効果仮説や敵対的メディア認知といった理論だ。

 詳細は省くけれども、たとえば第三者効果仮説によれば、「多くの人はメディアが自分に与える影響よりも他人に与える影響を過大に評価する」傾向があるという。この観点からすれば、「日本人の大多数はマスゴミに騙されている」という主張をする人は、典型的な第三者効果を発現していると見られるのであり、その人自身が分析の対象ということにもなりうる。

「上から目線」の裏アカウント

 ここで『何者』の話に戻ると、物語の終盤、主人公である拓人がツイッターの裏アカウント(アカウント名は何者@nanimono)を持っていたという事実が明らかになる。拓人はこの裏アカウントにおいて、他の登場人物に関するきわめてシニカルな分析ツイートを行っていたのだ。

 この時点まで裏アカウントの存在を知らされていなかった読者は、それまで本文中で示されていたさまざまな「分析」が、実は拓人の裏アカウントでツイートされていたことを知ることになる。その一つを引用しておこう。

何者 @nanimono 56日前
名刺をもらった。上の階のあの子は、ついに、自分の名刺を作ったらしい。学生特有の肩書でいっぱいの名刺。肝心の名前の部分に目がいかない。よくこんなものを配って歩けるなと思う。名前や肩書きではない何かを振りまいているようにしか見えない。
(出典)朝井リョウ『何者』新潮文庫、2015年、p.325。

 そして、拓人(と読者)にこの裏アカウントの存在を突きつけるのが、上のツイートにある「上の階のあの子」、理香なのである。理香は自分の名刺が大人たちから笑われるであろうことも、そんな様子を陰でバカにしている拓人のこともすべて承知していた。そのうえで、観察と分析しかできない拓人を「かわいそう」に思っていたのだ。この関係をもとに、先の図を書き換えると次のようになる。

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 つまり、上から目線で他人を分析していた拓人は、第三者効果仮説よろしく実際にはよりメタな目線から分析され、哀れまれる側だったということだ。

「メタ目線王決定戦」の勝者は

 もっとも、上記の構図だけが提示されるのであれば、この作品は凡作で終わっていたかもしれない。本作をより興味深いものにしているのは、さらに複雑な構造が存在するからだとぼくは考える。

 そこで目を向けたいのが、拓人のかつての親友であり、いまは大学を辞めて演劇に邁進しているギンジと、理香の彼氏である隆良の存在だ。

 ネットで酷評されながらも、毎月一回の公演をこなし続けているギンジと、なんだかよくわからないクリエイター志望の隆良。それぞれに何か新しいものを生み出そうとしているが、ギンジは酷評を受けつつも前に進み続ける一方、隆良は他人から評価されることを恐れ、分析者的な立ち位置にとどまり続ける。そんな隆良に拓人は次のように言い放つ。

「頭の中にあるうちは、いつだって、何だって、傑作なんだよな」「お前はずっと、その中から出られないんだよ」
(出典)前掲書、pp.254-255。

 この関係に沿って、再び先の図を書き換えると次のようになる。

f:id:brighthelmer:20161107095416j:plain

 この図からも明らかなように、先の図では第一水準の分析者であった拓人は、この図ではよりメタな分析者の位置に下がっている。拓人は状況に応じて目線の位置を変えることで、とにかくメタな目線を確保しようとしているのだ。

 とはいえ、この拓人の背後には、よりメタな分析者としての理香が控えている。もっと言えば、この作品世界の神であるはずの著者、朝井リョウはさらにメタなところにいるはずで、もはや「メタ目線王決定戦」のような様相を呈していると言っていいだろう。つまり、誰がもっとも鳥瞰的な視点に立てるかをめぐり、果てしない戦いが行われているのである。

「カッコ悪いことを認める」意味

 先に紹介した拙著においてぼくは、「重要なのは、他人よりもメタな目線に立とうとする努力よりも、自分がどのような目線に立っているのかについて自覚的であることではないでしょうか」と述べた(p.217)。

 鳥瞰的な視点はもちろんあっても良いが、より重要なのは、自分にとって何が必要なのか、何が大切なのかを見極めることではないかということだ。もちろん、そのような価値判断に基づく行動は、他人から見れば視野が狭く見えることもあるし、バカにされることもあるだろう。だが、よりメタな目線を求めての無限後退は、結局のところ何も生み出さない。

 僭越ではあるが、ぼくのこうした主張と、『何者』の着地点はそれほど遠くないところにあるのではないかと考えている。物語の結末において、拓人は次のように語っている。

「長所は、自分はカッコ悪いということを、認めることができたところです」
(出典)前掲書、p.335。

 他人からバカにされていることを承知しつつも、いまある「武器」で必死に戦おうとしている理香や、酷評を恐れずに定期公演を続けるギンジからすれば、メタな目線を求めて無限後退を続ける拓人はカッコ悪い。それを認めたうえで前に進むためには、どうしても理香やギンジと同じところにまで「降りてくる」必要がある。それは、他人から観察され、嘲笑され、馬鹿にされることを甘受するという覚悟だ。

 というわけで、『何者』という小説は、「メタ目線王決定戦」の下らなさ、それにもかかわずそこに入り込まざるをえないツイッター人の病を克明に描いている点で、非常に優れた小説だと思う。

 なお、このエントリもまた、そうした病をこの上なく示したものである……が、この一文自体が「そういうお前もメタ目線王決定戦の出場者じゃないか」というツッコミを先取りして封じてしまうことを目的とした予防線なのであり、なんかもうこういうことを書いているとわけがわからなくなってきたので、唐突にここで終わることにする。