擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

大学生はなぜ勉強したほうがよいのか

 社会学部の同僚である藤代先生が大学1年生に向けて、大変に熱いエントリを書いておられる。

gatonews.hatenablog.com

 在学中も、そして卒業したあとも、学び続ければ就職や仕事で可能性が広がっていくというのは正論だろう。大企業にさえ入れば一生安泰なんていう時代でもない。

 が、「だから勉強しろ」というところで、ぼくは少し気後れしてしまう。理由を考えるに、ぼくのなかにどうやら「ダラダラした学生生活」に対する憧れがあるようなのだ。

「ダラダラした学生生活」とは

 浪人生をしていたころ、漫画家・東海林さだおさんの自伝『ショージ君の青春記』(文春文庫)という本を読んだことがある。「女の子にもてたいからロシア文学科」というめちゃくちゃに意識の低い学生だった東海林さんは、早稲田大学入学後に漫画家を目指すも挫折を繰り返し、結局は中退してしまう。この本を読む限り、東海林さんの大学生活は大変にだらしなく、勉強に打ち込んでいる様子は皆無である。現在の大学教育からすればけしからん存在であることは間違いない。

 けれども、ぼくのなかに「こういう学生生活もいいよな」と思ってしまう部分もあるのだ。ここで森見登美彦さんの小説『四畳半神話大系』(角川文庫)を挙げてもいい。主人公は本当に勉強をしない駄目なやつである。果てしなく下らないことばかりしている。だがそれが良いのだ。大学でがっつり勉強して、大企業に内定ゲット、なんていう主人公なら、そもそもこの小説は成立しない。

 さらに個人的な体験談をつけ加えると、ぼくは大学1年生のときには文学部だった。今はどうだか知らないが、当時の文学部の男子学生というのは基本的にどこか斜に構えているか、変わったパーソナリティの持ち主が多かったように思う。「文学部は就職が悪い」というのは常識だったので、基本的にそちら方面に関する意識は低かった。「ミニ東海林くん」のような学生もけっこういた。

 2年生になるとき、ぼくは法学部に移った。1年生のときにいろいろとあって、政治学を勉強したいと思ったからだ。移った先の法学部の学生はさすがに文学部に比べれば前向きだったように思う。だが、どちらかといえば文学部のかつての同級生のほうがぼくは好きだった。ミニ東海林くんたちの意識は壮絶に低かったかもしれないが、人間的には愛すべき連中だった。彼らがいまどこで何をしているのかは知らないが、元気にやっていてほしいと思う。

結局は勉強してしまう

 ただ、こういう「ダラダラした学生生活」への憧れにもかかわらず、結局のところぼくはそれなりに勉強し、修士課程に進学して、しかも修士課程では就職活動を放り出して博士課程にまで進んでしまった。それはなぜかと問われると、「学問が面白かったから」と答えるよりほかない。

 就職活動中、休憩と称して喫茶店に入り、学術書を開く。たいそう面白く、こういうことをずっと研究したり、人に伝えたいという思いが繰り返し押し寄せる。結局、我慢できなくなって指導教授に「修士論文を書くのが余計に1年かかっても構わないので、博士課程に行きたいです」と申し出たところ、先生は「そうなると思ってた」と言って笑った。

 だから、「大学生はなぜ勉強したほうがよいのか」を考えるとき、本音では「そのほうが面白いから」という答えしかぼくは持たない。教養の習得とか論理的思考能力の育成、激変する環境下で生き残るためといった答えもできなくはないのだが、やっぱりどこか後付けの感じが漂う。そもそも、自分に教養があるのか、そんな論理的に思考できているのかという疑問もある。この先、激変する環境でちゃんと生きていけるのかもちょっと自信がない。

 学問は面白い。「これまでとは違う物事の見方」を教えてくれるし、人によって言うことが違うから取捨選択したり、自分でさらに発展させる楽しみもある。論文を書いているときに「オレって天才じゃね?」と「ああ、やっぱり全然ダメだ…」の繰り返しを味わうのもいい。視野がぱーっと開けるような感覚は学問ならではではないだろうか。だから、その面白さを知らないまま大学を卒業していくのは、もったいないと思うのだ。

 もちろん、マンガやゲーム、アニメなどに比べれば、楽しむためのハードルは高い。そのハードルを越えなければ、無味乾燥に見える学術書の記述が「な、なるほど!」という驚きを与えてくれるものに変化したりはしない。もっとも、最近の大作ゲームの複雑な世界観や操作方法などと比較すれば良い勝負かもしれない。この歳になってくると、ゲームの操作方法を覚えるのにも一苦労である。ぼくがいまやっている『ウィッチャー3 ワイルドハント』は面白いのだが、決定がなぜ☓ボタンなのかが理解に苦しむところだ。

「面白さ」の度合いは相対的である

 話が逸れた。

 ただ難しいのは、なにを面白いと思うかは人によって大きく違うということだ。ぼく自身、学術書を読んでいて「つまんねーなー、この本」と思うことは少なからずある。それでも、その本を書いた人はきっと面白いと思って書いているのだろうし、それは単に関心をもつ対象の違いでしかない。逆に、ぼくが本当に面白いと思うことを講義で一生懸命に話しても、受講者が実につまらなさそうな表情を浮かべていることもある(もちろん、ぼくの伝え方が下手くそなだけという可能性も大いにある)。

 けれども、実は「面白い/面白くない」という感覚はわりと相対的なものではないかとも思う。ここで偉そうなことを書いているぼくにしたって、電車のなかではワクワクしながら読める本が、『ちはやふる』や『僕だけがいない街』の最新刊が目の前あったりした日には急に楽しめなくなることがある。ぼくが講義をやっている教室にいきなり池上彰さんがやってきて、大変に興味深いニュース解説なんかを始めたりした日には、ただでさえ魅力に乏しいぼくの話はより一層つまらなくなってしまうはずである。

 だから、学問を楽しむためのコツの一つは、それより他にやることがない場所に自分を置くことだと思う。電車のなかや一人で入った喫茶店などは、少なくともぼくにとっては学問のための貴重な場所だ。スマホが目の前にあると気が散るので、基本的にはカバンやポケットのなかに入れておく。

 ぼくの勤務先はお世辞にも交通アクセスが良いとは言えず、長い時間をかけて通学してきている学生も少なくない。だが、見方を変えれば、学問を楽しめる時間がそれだけ長いとも言える。バイトやサークルなど、いまの大学生がとても忙しいことは承知しているが、そういう空いた時間をうまく活用して、少しでも学問の面白さに触れてもらえればと思う。

最後に

 上でも述べたように、ぼくは「ダラダラした学生生活」や「ミニ東海林くん」に対して、それなりに好意的である。ぼく自身、学生時代には3日ぐらい『ファイナルファンタジー7』をぶっ通しでやり続けて、コントローラーを握りしめたまま眠ったこともある。それでも教員として、出来の悪い答案に単位は出せないし、正当な理由もなくゼミを欠席する学生には注意をしなくてはならない。

 これはもう仕方がないのである。