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擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

保育園不足問題は「超政治化」できるか?

anond.hatelabo.jp
このエントリが話題である。

 はてなの「アノニマス・ダイアリー」(通称、増田)のエントリがここまで話題になるというのは、長年のはてなユーザーからすればある種の感動を禁じ得ない。だって、あの増田ですよ?通勤途中にう○こ漏らしたとかいう話題で盛り上がっているあの増田が国会デビューする日が来るとは、さすがにちょっと予想できなかった。ちなみに、増田には稀に文学的な文章が投稿されることがあり(「増田文学」と呼ばれる)、ぼくのお勧めは次のエントリだ。

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「超政治化」と「脱政治化」の狭間

 …という前置きは措くとして、保育園エントリが話題になって以降、いくつかの動きが出てきた。このエントリで取り上げたいのは、保育園不足の問題を政治的党派間の争いに利用しないで欲しいという主張、そしてもう一つはこの問題の重要性を否定、もしくは切り下げようとする主張だ。後者の主張には、子どもが保育園に入れないぐらいで文句を言うのはわがままだといった発言のほか、この問題について声を上げた人たちの属性(抱っこ紐の値段がどうとか、どこかの政党のメンバーだとか)を疑問視することで、問題提起の価値を切り下げようとする発言も含まれる。

 そこでまず参照したいのが、イギリスの政治学者コリン・ヘイによる政治化/脱政治化に関する議論だ。ヘイによれば、世の中のさまざまな社会問題は政治化へ向かうこともあれば、脱政治化へと向かうこともある。政治化について言えば、それまでは当たり前のこと、仕方のないことと見なされていたことがらが私的な会話で問題として語られるようになる(政治化Ⅰ)。次に、社会運動やマスメディアなどによってそうした問題が広く周知されるようになる(政治化Ⅱ)。そしてそれがやがて政治的な問題として選挙や議会での争点になる(政治化Ⅲ)。

 もちろん、すべての社会問題がスムーズに政治化Ⅰから政治化Ⅲに進むわけではない。待機児童問題で言えば、長らく政治化ⅠおよびⅡの段階で止まっていて、政治化Ⅲの段階まで進むことはほとんどなかったと言って良いのではないだろうか。ところが今回、増田のエントリの文章が刺激的だったこともあり、マスメディアでも大きく取り上げられ、民主党の議員が国会で取り上げたことから、大きな注目を集めるに至った。

 そうしたなかで、先にも挙げたように、この問題を政治的党派間の争いに利用しないで欲しい、現政権を攻撃する材料に使わないで欲しいという声が上がってきた。これは、野党や左派の運動に対する強烈な不信感に加え、政治化Ⅲの段階をさらに越えて、保育園不足の問題をいわば「超政治化」したいという願望の現れだとも考えられる。つまり、この問題は政治的党派に関係なく国の将来にとって重要な問題なのだから、一致団結して問題解決に動いて欲しいという発想だ。

 他方、保育園不足問題の重要性を否定しようとする声は、これを政治以前の状態へと押し戻す「脱政治化」を目指していると言える。つまり、子どもを保育園に入れられないのを当たり前のこと、仕方のないこととして受け入れろという主張ということになる。具体的な対処法としては、「妻が家庭に入って一家で四畳半に住む」ということになるかもしれない。

 以上のような政治化および脱政治化を図にすると次のようになる。なお、「超政治化」については、ヘイのもともとの図にぼくが書き加えたものだ。 

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政治の回避

 超政治化と脱政治化を目指すこれらの動きは、一見すると対極的であるように見えるが、政治を避けているという点では共通している。しかし、脱政治化を否定し、保育園不足が重大な社会問題であることを受け入れたとしても、超政治化の領域へと至ることは難しい。どこまで行っても資源配分の問題からは逃れられないからだ。そして、資源配分をめぐる闘争とはすなわち政治である。限られた資源を誰かがより多く得るということは、(少なくとも短期的には)誰かが損をするということである。

 保育園不足の処方箋として提起される教育・保育バウチャー制度にしても、その原資が税金である以上、政治的な資源配分の問題から逃れることはできない。制度を導入したところで、配分されるバウチャーの額面いかんでは格差の問題が顕在化してしまう(大阪市では経済的な理由で塾に通えない子どものために教育バウチャー制度が導入されたものの、その額面が少ないために利用が進んでいないという報道もある)。

 加えて、現政権と保育園不足問題との相性は、控えめに言ってもよろしくない(注1―追記)。安倍首相やその周辺はどうやら「家庭での伝統的な子育て」にご執心の様子であり、だからこそ「育児休業を3歳まで伸ばす」とか「三世代同居の推進」とか、明後日の方向を向いた話ばかりが出てくる(ちなみに、家庭での子育てが本当に「伝統的」であるかどうかは意見の分かれるところだろう)。

 にもかかわらず、超政治化への期待とともに、現政権への攻撃を控えようという発想が出てくる背景には、少なくとも当面のあいだは(もしかすると半永久的に)、政権交代が行われないだろうという予測があるのではないかと思う。自公政権がずっと続くのであれば、野党による攻撃材料に使われて政権の機嫌を損ねるよりも、たとえ相性は悪くとも政権内部の人にもちゃんと理解してもらって問題解決のために動いてもらったほうが賢明だという判断があるのかもしれない(ただし、政権運営に余裕ができるほど、政権は自分たちのコアな支持層のほうに向いた政治を行うようになる、というアメリカ政治における知見は覚えておいてよいかもしれない)。

 こう考えると、超政治化を求める声が上がる背景には、子育て世帯の受け皿となりうる政権交代可能な野党の不在があると言ってもいいだろう。言い換えればそれは、政治のアリーナにおいて自分たちの要求が実現されることに対する諦めと、それでも何らかのかたちで自分たちの抱える問題を解決して欲しいという願望の現れなのではないだろうか。

(注1―追記)
ただし、保守層からの支持の厚い安倍政権だからこそ、この問題に関してドラスティックな政策変更を実現できる可能性もある。リベラルな政権であれば「バラマキ」と呼ばれて火だるまになりそうな政策でも、現政権が実施するのであれば保守層の反発を抑えられるかもしれないからである。

アジェンダ設定理論からの示唆

 ところで、増田のエントリに端を発する今回の流れについては、マスコミュニケーション研究におけるアジェンダ(議題)設定理論の観点からも分析することができる。

 ここで言うアジェンダ設定理論とは、マスメディア上で話題となった出来事(メディアアジェンダ)が、人びとが関心を持つ事柄(公衆アジェンダ)に大きな影響を与えると考える理論を指す。メディアアジェンダが公衆アジェンダとなれば、やがてそれは政治的な争点(政策アジェンダ)にまで波及しうる。

 ただし今回の場合、増田のエントリがネット上で話題になり、それがマスメディアでも大きく取り上げられたのが発端であることを考えると、公衆アジェンダがメディアアジェンダとなり、やがて政策アジェンダに転化したと考えるべきだろう。

 ちなみに、アジェンダ設定理論では、メディアアジェンダに飛びつくのは野党であることが多いとされる。野党は政権の問題点を探すための「レーダー」としてマスメディア報道を使うからだ。逆に言えば、野党が国会で取り上げでもしない限り、政権がメディアアジェンダに乗ってくることはあまりない。その意味では、政権攻撃の材料に用いられたからこそ、保育園不足問題は政策アジェンダに転化したと見ることもできる。

 また、政権がメディアアジェンダに対応する場合、その政策変更はシンボリックな次元に留まるケースが多いとされる。つまり、実質的な予算の配分や大規模な方針転換というよりも、有権者に対して「何か手を打っています」とアピールするためだけの政策変更ということだ。マスメディアの報道は基本的に飽きっぽいので、実質的な政策変更に必要となる長い期間にわたって関心を持続させることができない。

 今回の騒動を受けて、保育園の「具体的な改善策」を示すという方向性が政府から示されたものの、その頃になって世論がこの問題に飽きていれば、その「改善策」はごくごく小規模なものに留まる可能性が高いだろう。そうならならないためにも、息の長い取り組みが必要になるのだろうと思う。

 そして、そうした取り組みがより大規模な政策転換を望むならば、政治を避けることはたぶんできない。

参考文献

ヘイ,コリン(2012)吉田徹訳『政治はなぜ嫌われるのか 民主主義の取り戻し方』岩波書店
Gilens, M. (2012) Affluence and Influence: Economic Inequality and Political Power in America, Princeton University Press.
Kingdon, J. (2011) Agendas, Alternatives, and Public Policies (Updated 2nd edition), Longman.
Walgrave, S. and van Aelst, P. (2006) ‘The contingency of the mass media’s political agenda setting power: toward a preliminary theory,’ in Journal of Communication, vol.56 (1), pp.88-109.