読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

「ダブルシンク」としてのミサイル報道

 イギリス人作家、ジョージ・オーウェルの『1984年』は、全体主義国家による徹底した管理を描いたディストピア小説としてよく知られている。

 この小説に登場する全体主義国家では、「ダブルシンク(二重思考)」と呼ばれる思想統制方法が用いられている。それによって国民は、本来は矛盾するはずの二つの信条を矛盾のないものとして受け入れることが可能になる。

 たとえば主人公が勤める真理省は、国家の方針に沿って歴史を都合よく書き換えるための国家機関を指す。真理省で働く者は歴史の捏造に手を染める一方で、そこで生み出される「歴史」が真実であると信じねばならないのだ。

 このダブルシンクを彷彿とさせるのが、昨日、北朝鮮が発射した「事実上の長距離弾道ミサイル」に関する報道だ。北朝鮮政府は人工衛星の打ち上げと主張しており、実際に「地球観測衛星」を軌道に乗せた可能性もあるという。

 言うまでもないことだが、日本が人工衛星を発射するために用いているのは「ロケット」だ。だが、すでに多くの人が指摘するように、多くの報道では北朝鮮の人工打ち上げに関しては頑なに「ロケット」という言葉の使用が拒否され、「事実上の長距離弾道ミサイル」という言葉が用いられている。つまり、同じ人工衛星を発射するのでも、日本が打てば「ロケット」だし、北朝鮮が打てば「ミサイル」だと考えるようにわれわれは求められているのだ。

 これも多くの人が指摘するように、「ロケット」と「長距離弾道ミサイル」との区別はそれほど明確なものではない。人工衛星を乗せれば人工衛星の打ち上げに、核弾頭を乗せれば敵国の攻撃にも使える。だからこそ、1957年にソ連人工衛星スプートニク1号を打ち上げに成功したとき、世界中で大きな衝撃が起きたのだ。

 日本のロケット開発も例外ではない。

 中日新聞社編『日米同盟と原発』(中日新聞社、2013年)によれば、冷戦下において、日本の核武装が検討されたことがあった。しかし、国際関係から考えて核武装は現実的な選択ではない。そこで、核武装の代替手段として「潜在的な核武装能力」をアピールすることが考えられた。そのための具体的な方策が「原子力の平和利用」と「国産ロケット開発による人工衛星の打ち上げ」だったというのだ。少し長いが、引用してみよう。

 68年1月20日付の外交政策企画委員会議事録には「軍事利用と平和利用とは紙一重というか、二つ別々のものとしてあるわけではない」「ロケット技術が発達すれば、原子爆弾さえ開発すれば軍事に利用できるわけだね」など、幹部クラスのやりとりが記されている。

 当時、外務省科学科長として議論を仕切った現在83歳の元フランス大使、矢田部厚彦は「日米同盟を考えると、当時も今も核武装は現実的ではない」としながらも「可能性のあるふりをすることが抑止力になる。その方法が科学技術を高めることだった。科学技術を高めることで、必然的に核のポテンシャル(潜在力)が上がる。そこに、政権の意思さえ加われば、核のオプション(選択肢)になるのだから」と明かす。

 日本は59年、ロケット技術の開発方針を決定している。この時、所管する科学技術庁(現・文部科学省)の長官は54年に戦後初の原子力予算を議員提案した中曽根康弘(41)だった。

 元科技庁次官で、現在88歳の伊原義徳は60年代初めに、自民党議員がロケット予算について「あれはあれだから、よろしく頼むよ」と話し合うのを耳にした。「核爆弾の搭載手段として期待していたのでしょう」と推察する。

(出典)中日新聞社編(2013年)『日米同盟と原発中日新聞社、pp.129-130。

 もっとも、こういう話があったからといって、日本の国産ロケット開発が「潜在的な核武装能力」のアピールだけを目的として進められたというのは言い過ぎだろうとは思う。数ある思惑のうちの一つ、ぐらいではないだろうか。

 いずれにせよ、人工衛星の打ち上げに用いるロケットと長距離弾道ミサイルの開発とは深く結びついてきた。実際の開発においてはロケットに求められる仕様と、長距離弾道ミサイルに求められる仕様との間には違いがあるとはいえ、同じ人工衛星を打ち上げるのでも日本がやれば平和的な「ロケット」で、北朝鮮がやれば軍事的な「ミサイル」というダブルシンク的な用語法はどうにも気持ちが悪い。言語という人間の思考の基礎そのものを操作しようとする試みに見えてしまうからだ。

 「ロケット」と「ミサイル」が近しい関係にある以上、北朝鮮が実際に衛星を打ち上げていようといまいと、それが国際的な安全保障にとって重大な脅威だと論じることは可能だろう。日本も北朝鮮も同じようなものを打ち上げているとしても、国際的な枠組みに沿って行っている日本と、それを無視して実施している北朝鮮とを区別して論じることはできる。

 全体主義国家と対峙するにあたり、全体主義的な手法を用いることは、自らの正当性を切り崩すことになりかねない。自他を差異化するのであれば、それは論理のうえで行うべきであって、「ロケット」と「ミサイル」のようなダブルシンクまがいの言語使用で実施すべきではないように思う。

(追記)こうしたダブルシンク的な言語使用の問題の一つは、それが「自分たちのやっていること」を客観的に眺めるのを難しくする点にあるように思う。今回の北朝鮮政府の発表や、先に引用した元外交官の発言が明確に示しているように、「自分たちがやっていると主張していること」と「外部からどう見られているか」はズレることがある。

 「自分たちが打ち上げているのは平和的なロケット」であり「彼らが打ち上げているのは軍事的なミサイル」というダブルシンク的な言語使用は、「自分たちは誰にも力を誇示せずに、平和的に生きている」という観念だけを強化し、少なくとも潜在的には日本もかなりの軍事力を有する国家なのだという認識を難しくする。結果、外国が日本を潜在的な脅威として認識(米国ですらそうした認識を完全には捨てていないと思う)するかもしれないという事実を見えづらくしてしまうのではないだろうか。