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擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

憐れみが人を殺すとき

 どうにも整理のつかない話というものがある。

 先日、ネットを見ていると、高齢の男性が長年連れ添った伴侶を殺害したという事件の記事がアクセスを集めていた。少し長いが、記事を引用してみたい。

 93歳の夫が体の痛みを訴えていた妻に頼まれて殺害したとして、嘱託殺人の罪に問われた公判が千葉地裁で開かれている。夫は「今でも愛しております」と語り、2人の娘は「父は追いつめられていた。ごめんなさい」と悔やんだ。

 妻(83)への嘱託殺人の罪に問われているのは茂原市の無職の夫。家族によると、軽度の認知症という。

 起訴状などによると、夫は2014年11月2日、自宅で妻から殺してほしいと依頼され、ネクタイで首を強く絞めたとされる。

 夫は自ら110番通報。その後、妻は死亡。生前、「家族に迷惑をかけたくない」とメモを残したとされる。(中略)

 法廷での被告人質問や長女と次女の証言によると、東京・浅草の職場で出会い、結婚生活は60年余り。3人の子を持った。

 長女は「父は付きっきりで面倒を見ていた」と語る。買い物、庭の手入れ、トイレの連れ添い……。料理も妻に教わったという。

 「妻から『何もできない。苦しいだけ』と言われた。もう断れない」

 夫は殺害を頼まれた時の心境をこう明かした。

 最期、2人は添い寝をした。靴職人として働き、妻と知り合ったころを思い出した。昔話を続けた。「妻はニコニコしていた。とてもきれいだった」

 妻は介護サービスなどを受けるのを嫌がっていたという。長女は涙ながらに「私がもう少し気付いていれば。父にはおわびでいっぱい」と語った。(後略)

(出典)『朝日新聞』2015年6月18日

 正直に言えば、この記事を読んだときは落涙を禁じ得なかった。長年連れ添った夫婦が迎える悲劇的な結末。それを前にして、覚悟を決めた二人が昔を楽しく語り合っている姿を想像するとそれだけで胸が痛くなる。しかも、この男性は裁判においてなお自ら手にかけた妻への愛を語るのだ。

 この記事を読んで思い出したのが、かつてドイツで制作された『私は訴える』という映画の話だ。古い映画なので残念ながらぼく自身は見ていないのだが、市野川容孝さんの紹介によると、次のようなストーリーらしい。

 病理学者トーマス・ハイトは、妻のハナが多発性硬化症という難病に侵されていることを知る。この病気が進行すれば、身体の感覚機能や運動機能が低下し、言語障害や精神障害を生じさせるのだという。トーマスは治療のための新薬開発に取り組むが、成果を得ることができない。自らの病を知ったハナはトーマスに次ように訴える。

「自分が最後の瞬間まで、あなたのハナでいられるように助けてちょうだい。あなたの知らないハナ、耳も聞こえず、話もできず、白痴になったハナでは絶対にいや。そんなこと私には耐えられない。…そうなる前にあなたは私を救ってくれると約束して、トーマス。そうするのよ、トーマス。私を本当に愛しているなら、そうするのよ。」
(出典)市野川容孝(1997)「権力論になにができるか」(奥村隆編『社会学になにができるか』八千代出版)、p.235。

 トーマスは妻の願いを聞き入れ、毒薬を与えてハナを殺害してしまう。

 その後、トーマスは殺人罪によって起訴される。法廷で弁護士はハナが多発性硬化症によって志望したと主張し、トーマスの無罪を勝ち取ろうと考える。ところが、トーマスは法廷で自分がハナを殺したことを正直に話そうとする。弁護士は「あなたは自分の無罪を棒にふる気ですか!」と制止するのだが、トーマスは告白する。

「真実を告白します。私は不治の病にあった自分の妻を、彼女の望みによって、その苦しみから解放したのです。私の今の人生は彼女に捧げられています。そして、その決定は妻と同じ運命に会うかもしれないすべての人びとにもあてはまるのです。判決をお願いします。」
(出典)市野川、前掲論文、p.236。

 この『私は訴える』という映画はドイツで大ヒットを記録し、観客動員数は1800万人に及んだのだという。先に紹介した記事とどことなく似ていると言えないだろうか。

 ここで重要なのは、この映画がどのような文脈のもとで制作されたかということだ。

 この映画が制作されたのは1941年。当時のドイツでは「安楽死計画」のもと、障がい児童、精神病患者、不治の病のために労働の困難な人たちが組織的に殺害されていた。その犠牲者の数は7万人に及ぶという。安楽死計画は国内の反対により1941年には表向きには停止されるが、極秘裏に継続されていた。この安楽死計画を正当化するべく制作されたのが『私は訴える』なのだという。

 言うまでもなく、先の記事と『私が訴える』の内容とに共通する部分があるからといって、記事で取り上げられていた男性を厳罰に処すべきだとかそういうことを言いたいわけではない。個人的には、この男性には安らかな余生を過ごしてもらいたいと思う。

 むしろ気になるのは、(ぼくだけなのかもしれないが)記事を読んで落涙してしまうメンタリティのほうだ。相手がそれを望んでいるがゆえに、愛する者を自らの手にかけねばならなかった男性の苦悩にぼくは思いを馳せる。あるいは、夫を殺人者にしてしまうほどに辛い病を抱える女性の苦しみにも。「かわいそうだから、殺してあげる」という論理がそこでひょっこりと顔を出す。

 市野川さんによれば、障がいや難病を背負う人びとに対する憐れみは、病気のない世界に対する願望をより切実なものとする(市野川2006: 135)。その願望こそが、結果として病気にかかりやすい遺伝子を有する人びとや、難病に苦しむ人びとを「安らかに」眠らせる政策への支持を促したというのだ。

 もちろん、先の記事を読んで落涙することと、安楽死政策を支持することのあいだには深くて広い溝がある。それでも、この夫婦の苦しみに感情移入すればするほど、本人が望むのだから殺してあげることが救済なのだという論理が浮かび上がりやすくなるのではないだろうか。

 ここでまた市野川さんの指摘を紹介するなら、尊厳死の導入を訴える日本尊厳死協会の男女比を見ると、女性会員数が男性会員数の約2倍に達している(参照)。市野川さんはその理由として、介護の責任を担うことの多い女性は、その体験ゆえに自らが「迷惑をかける」立場になることを厭うのではないかと述べている(市野川 1997: 241)。そういう構造を踏まえてなお、本人が望むからという理由で死を与えることには問題があるのではないかというのが市野川さんの主張だ。

 たしかに、「家族に迷惑をかけるくらいなら死を選ぶ」という人が増えていけば、それは一種の規範となり、本当のところでは死にたくない人たちに無言の圧力がかかるようになるというのはありそうな話ではある。そうなれば本人の希望とは言い難いような死が増えていく可能性もでてくるだろう。とりわけ、高齢化がどんどん進行していくこれからの日本では。

 だからこそ安易な憐れみは禁物であると主張することには、たしかに筋が通っているように思える。新聞記事で事件をたまたま知っただけの気楽な部外者が、一時の情に流されて安易な自己決定を肯定してはいけないという結論はスッキリしている。検察側の「殺害決意は想像を絶する苦悩だったと思うが、妻の弱音とも考えられて軽率」という主張とも重なる。

 けれども、どこかモヤモヤする。そのモヤモヤをぼくはいまだうまく言語化することができない。だからこそ、冒頭で述べたように、これは整理のつかない話なのである。

参考文献

市野川容孝(1997)「権力論になにができるか」(奥村隆編『社会学になにができるか』八千代出版)
市野川容孝(2006)『社会』岩波書店