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擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

大阪を蝕むシニシズム

「既得権」をめぐる報道

 時期を逸してしまったが、大阪都構想に関する話だ。

 といっても、都構想の賛否について論じたいわけではない。その賛否に関する報道や文章にはそれなりに目を通しているものの、賛成や反対を明確に論じられるほどの知識があるわけではない。ぼくが生まれ育ったのは大阪市旭区だが、そこを離れてずいぶん経つし、大阪市の現状について詳しいわけでもない。

 それよりも気になるのが、都構想にまつわる「語り」だ。その語りを見る限り、維新の会的なものは実質的な「勝利」を収めたのではないかと思う。

 維新の会はこれまでしばしば既得権の破壊をその目標として掲げてきた。これは新自由主義的な方針を掲げる政党によく見られる特徴であり、さまざまな規制や制度によって守られてきた既得権を破壊し、競争を促進することで社会は効率化できるという発想がその土台にある。

 実際、既得権の破壊を叫び始めたのは維新の会が初めてというわけではない。ここで示したグラフは『朝日新聞』と『読売新聞』で「既得権」という言葉が用いられている記事の数の推移を表したものだ*1。このグラフを見ると、1997年と2000年から2001年にかけての報道量が突出しているもの、1980年代の後半から既得権を問題視する報道が継続していたことがわかる。

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 もっとも、そこで語られる既得権の内容は時期によってかなり異なる。たとえば、1980年代末に既得権者として語られることが多かったのは規制によって守られた企業や業界団体だった。それが1990年代になると政官業の癒着がさかんに論じられるようになり、「族議員」や「巨大権限な持つ官庁」が既得権の温床として批判されるようになった。

 ただし、既得権者としての「族議員」への批判は2000年代前半に小泉政権下でピークに達したあと、急速に減少していく。企業や業界団体が既得権者と見なされることも減っていき、「官」が言わば最後の大型既得権者として残ることになる。

 ここで興味深いのは、2000年に入るころから官批判のニュアンスが少しずつ変わってきたことだ。官が有する巨大な権限が既得権と見なされる傾向が続く一方、そこで働く人たちの待遇が既得権として語られるようにもなってきたのだ。

 2000年代以降のもう一つの特徴は、既得権者と見なされる対象が徐々に広がってきたということだ。高齢者、正社員、農家、農協など様々な人びとが既得権者として言及されるようになっていく。たとえば、2010年1月5日の『朝日新聞』に掲載された記事には次のようなコメントが見られる。

誤解を恐れずに言えば、既得権者の中には従来、弱者といわれてきた人もいるだろう。しかし、状況の大転換の中で、セーフティーネットの張り直しも含めて、既得権の仕組みをリセットして根底から変えないと、どんなに頑張っても成長の糧を得ることはできない。
(出典)『朝日新聞』2010年1月5日(朝刊)

 かくして、かつて巨大な組織や権力を批判するための言葉であった既得権は、ついに生活保護受給者にまで向けられるようになっていく。2011年12月には民主党前原誠司政調会長(当時)は「年金受給者に比べて生活保護の方が受給が高い。今までのあかを取りながら既得権益を退治する」と述べたと報道されている(『毎日新聞』2011年12月10日(夕刊))。

 年金受給者もまた既得権者としてしばしば言及されることを踏まえるなら、もはや誰が既得権者と見なされてもおかしくない状況が生まれてきたと言っていい。「権益」に対する批判として始まったものが、憲法で保証された「健康で文化的な生活を営む権利」を批判するところにまで到達したのである。

 宮本太郎さんは「やみくもに特権や保護を叩き、これを引き下げることで政治的支持を拡げようとする言説」を故・丸山真男の言葉を借りて「引き下げデモクラシー」と呼んでいるが、そのための土壌は着実に用意されてきた。

 そして、こうした「引き下げデモクラシー」的な言語戦略を最大限に駆使してきたのが維新の会ということになるだろう。維新の会の世界観が「敵か味方か」という二項対立的な性格を帯びていることはしばしば指摘されるが、そこで敵とされるのは要するに既得権を貪る者なのである。

 今回の住民投票の結果を受けて、賛成派の論客から出てきた言葉はまさにそうした世界観を如実に表している。実際のところは未だ定かではないが、都構想に反対したのは主として「高齢者」や「生活保護受給者」だと彼らはいう。彼らの発想からすれば、「高齢者」や「生活保護受給者」は自らの既得権の奴隷でしかなく、自分のアタマで考える力を持たない。もし考える力があるなら、都構想に賛成するはずだからだ。

シニシズムと民主主義

 政治コミュニケーション論では、狭隘な自己利益をただ追求するだけの存在として他者を見る態度を「シニシズム」と呼ぶ。「政治家や官僚は自分たちの利益のことしか考えていない」と見なすのが典型的なシニシズムであるが、「高齢者や生活保護受給者が自分たちの既得権だけを考えて都構想に反対した」という主張もシニシズムの発露と考えてよいだろう。

 こうしたシニシズム的な世界観は、新自由主義的な小さな政府路線と非常に相性が良い。政治家や官僚が自分たち自身の利益しか考えないのであれば、彼らの人数や活動範囲を可能な限り小さくしたほうが良いというのが自然な判断だからだ。

 だが問題は、こうしたシニシズムが民主主義に深刻なダメージを与えるということだ。人間が狭隘な自己利益の奴隷なのであれば、そこでは対話や説得といった民主主義の重要な要素はほとんど意味をなさない。力で抑えこむか、それとも騙すかのどちらかしかなくなってしまう。言い換えると、これは裏返しの唯物史観のようなもので、政治的な理念や主張は物質的利益を覆い隠すイデオロギーでしかないという発想に近い。

 もちろん、政治の役割が有限な資源の配分である以上、熟議で全てが解決できるわけでもなく、対立が起きることは避けられない。ただし、本来的にはその対立軸は複数あるべきで、ある政策では協力し、別の政策では対立するといった形であるからこそ、対立が過度に激化することは抑制される。

 ところが、単一の対立軸だけが支配的になると社会の維持が難しくなる。そこにシニシズムが入り込んでいくなら、対話も説得もなく、相手の人間性を否定する罵り合いだけが続いていくことになる。都構想の是非をめぐって反対派/賛成派の論者がそれぞれに論争相手の利害関係を問題にし始めたのはまさに象徴的と言っていい事態だった。

 都構想を話のネタとして消費するだけの論客にはそれでも構わないかもしれないが、大阪市の住民は今後も賛成派住民と反対派住民とで地域を作っていかなければならない。住民投票が終わった後になっても、離れた場所からシニシズムの毒を地域の人間関係に注入し続けるような言動は厳しく批判されてしかるべきだ。

 さらに言えば、維新の会よりも遥かに長きにわたってシニシズムの毒をふりまいてきたマスメディアの言語も批判されるべきだろう。たしかに、様々な人びとの背後に利権の存在を見出し、それを暴露するというジャーナリズムの営みが権力監視や腐敗防止という役割を果たしてきたことも否定できない。だがそれは、あらゆるところに既得権者を見出し、攻撃することとイコールではないはずだ。

 ともあれ、大阪市での住民投票は終わった。願わくば、ぼくのふるさとがシニシズムを越えたところに次の未来を見いださんことを。

参考文献

J.N.カペラ・K.H.ジェイミソン、平林紀子・山田一成監訳(2005)『政治報道とシニシズムミネルヴァ書房
C.ヘイ、吉田徹訳(2012)『政治はなぜ嫌われるのか』岩波書店
津田正太郎(2013)「『引き下げデモクラシー』の出現:既得権バッシングの変遷とその帰結」(石坂悦男編『民意の形成と反映』法政大学出版局)。
宮本太郎(2009)『生活保障』岩波書店

*1:このグラフの作成にあたっては『聞蔵Ⅱ』および『ヨミダス歴史館』を使用した。これらの記事データベースは、1980年代半ば以降の記事であれば、記事内で使用されている言葉まで検索できるが、それ以前の記事では見出しおよびキーワード検索しかできない。また、1980年代半ば以降であっても、全ての記事がデータベース化されておらず、地域面やスポーツ面などのデータは逐次的に追加されている。一例を挙げると、『朝日』の静岡・山梨・宮城の地域面が収録されているのは1993年10月以降である。そこで、年ごとの記事数の比較をより正確に行うため、『朝日』については東京発行の本紙に限定して、『読売』については東京発行の全国版に限定して集計している。そのため、たとえば2011年の大阪発行の地域面では既得権関連記事がかなり掲載されているが、その数は反映されていない。