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擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

伊織とアスカ

雑想

 40歳をとう過ぎたオッサンがこんな話をブログに書くというのはいかがなものだろうか。そう悩みつつも書かずにはいられない。それが今回のエントリである。

 『ココロコネクト』というアニメがある。原作はライトノベルでアニメは2012年7月から9月にかけて放送された。男子高校生2人、女子高校生3人をメンバーとする文化研究部なるグループが登場し、その唾棄すべきリア充的展開が数十年も前の不毛な高校時代をぼくに想起させるというトラウマ的作品である。いやまあ、面白いことは面白いのだが、ぼくのようなオッサンが熱く語る作品ではないと思う。

 …という、どうでもいい感想は措くとして、先日、その14話から17話を見るという機会を得た。それは実に社会学的に解説してみたくなるエピソードなのだが、残念なことにその解説を聞いてくれる人がぼくの周囲にはいないし、授業でも取り上げづらい。そこで、いつものテーマとは大きくずれることは承知しつつ、あえてこのブログに書いてみることにした。何かを無性に解説したくなるというのは、もはや一種の職業病なのではないかと思う。興味のない人、ネタバレが嫌な人はスルー推奨です。

ココロコネクト』における感情伝導

 『ココロコネクト』という作品のキモは、「ふうせんかずら」なる正体不明の存在が登場し、文化研究部のメンバーたちに様々な心理実験(?)を仕掛けてくることにある。未知の存在がなぜ一介の高校生相手にそんな実験を仕掛けてくるのかはよく分からない。視聴者に求められるのは、「ふうせんかずら」の正体に思いを巡らすことではなく、とりあえずそういう設定を受け入れたうえで高校生たちの心の動揺を楽しむという態度である。

 14話から17話では「感情伝導」という実験(?)が仕掛けられる。文化研究部のうちの誰かが感じたことが他のメンバーにも勝手に伝わってしまうという現象だ。いつ、どのようなタイミングで生じるのか、誰の感情が誰に伝わるのかはランダムだが、感情を発した側は誰にそれが伝わったのかが分かる。要するに、内心では思っていたとしても相手には伝えたくないと考えていることまで伝わってしまうというやっかいな現象である。

 物語中、感情伝導でもっともダメージを受けるのが永瀬伊織という女の子である。もともと伊織は明るく、周囲を元気にするようなキャラクターとして認識されていた。ところが、この現象によって伊織が話していることと内心で考えていることとのズレが明らかになる。要するに、キャラを「作っている」ことが暴露されてしまうのである。

 それによって伊織はもともと感じていた「周囲が認識するわたし」と「ほんとうのわたし(=暗いし冷めてるわたし)」とのズレに耐えられなくなる。結果、後者を一気に表出させてしまい、周囲との人間関係を急激に悪化させることになる。文化研究部の他のメンバーはなんとかして伊織を元に戻そうとするのだが、彼女はそれに押し付けがましさを感じてしまい、さらに反発を強めていく。以上がストーリーの大まかな流れである。

「ほんとうのわたし」とは何か

 まず考えたいのが、伊織が認識している「ほんとうのわたし(=暗いし冷めてるわたし)」が本当の伊織なのかという問題である。

 心理学でよく用いられる「ジョハリの窓」というマトリックスでは、自己は4つに分割される。「Ⅰ. 開放の窓」は自分も他人も知っている自己、「Ⅱ.盲点の窓」は他人は知っているが自分は知らない自己、「Ⅲ.秘密の窓」は自分だけが知っている自己、「Ⅳ.未知の窓」は自分も他人も気づいていない自己を指す。

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(出典)ジョハリの窓 - Wikipedia

 石川准さんの『アイデンティティ・ゲーム』(新評論、1992年)という著作によれば、アンケート調査をすると約6割の回答者が「Ⅲ.秘密の窓」を本当の自己だと考える傾向にあるのだという。ぼくも授業で何度か尋ねてみたことがあるが、確かに「Ⅲ. 秘密の窓」が本当の自己だと考えるという受講生がもっとも多い。

 『ココロコネクト』に話を戻すと、伊織も感情伝導以前には他人に隠していた「暗いし冷めてるわたし」を「ほんとうのわたし」だと認識しており、その6割に含まれると考えてよい。

 ところで、なぜ「秘密の窓」を他人から隠す必要があるのだろうか。言うまでもなく、他人に知られては困るような「わたし」だからだ。つまり、人は自らの本質をネガティブなものだと認識する傾向にあると言ってよい(前掲書)。伊織もまた、自らのネガティブな本質が感情伝導によって隠しきれなくなったと判断し、それに正直にならざるをえないと考えたのである。

 しかし、他人に隠しているからといって、それを自分の本質だと考える必要は必ずしもない。

 実際、石川さんによると、年齢が上がるにしたがって「Ⅱ. 盲点の窓」こそが自分の本質だと考える人が増える。結局のところ自分のことは自分では評価できないという人格的成熟がそうさせるのではないかというのだ。この観点からすれば、周囲の人間が理解している伊織像(=明るくて周囲を元気にするわたし)こそが本当の伊織であった可能性も出てくる。

 もっとも、とりわけ若い時期において人格は使い分けられることが多く、状況いかんによって様々に変化しうる。つまり、何が本当の伊織なのかという問い自体が間違っているとも言える。とはいえ、伊織が「暗いし冷めてるわたし」だけを本当の自己として規定し、それが命じる通りにふるまい続けるなら、やがて伊織の本質もそのようになっていく可能性は高い。

 だが、結局のところそうはならず、伊織は救済される。それはなぜか。

業績と帰属による自己肯定感

 その問いについて論じるまえに、伊織が周囲からの干渉をなぜ「押しつけ」として感じてしまったのかという問題について述べておきたい。

 人が自らの存在を肯定するための根拠は、大雑把に言って「業績」と「帰属」という二種類に大別することができる。

 業績というのは、要するにその人が成し遂げた「何か」である。難しい試験に合格した、大きな契約をまとめた、たくさんの外国語を話せる…等々の業績は、「自分には価値がある」と信じるための重要な根拠になる。業績というと大げさな感じもするが、ここでは自己の能力や努力によって勝ち取られたもの全般を業績と呼ぶことにしたい。

 業績に基づく自己の肯定は、能力を示し続けられる限りにおいてのみ有効である。スポーツ選手が自らの能力に誇りを抱いていたとしても、能力の衰えはその誇りを奪ってしまいかねない。業績のみに基づく自己肯定は結構疲れるのだ。

 他方、帰属に基づく自己の肯定は、親子関係や地縁、国籍などの「生まれもっての属性」に根拠を持つ。つまり、業績に関係なく「あるがままの自分」を肯定してくれるものだ。親子関係の場合、勉強やスポーツができようができまいが、自分が親の子どもであるという事実そのものによって愛されるという感覚、それが帰属に基づく自己肯定感を育む。

 人格的な独立性が高まる思春期以降になると、帰属に基づく自己肯定感だけでは満足できなくなり、業績に基づく自己肯定が追求されることが多くなる。親から愛されるだけでは物足りなくなり、恋愛をしたい(=自らの魅力(一種の業績)によって愛されたい)という感覚が強まるのはその一例だ。とはいえ、それでも帰属に基づく自己肯定はその土台として機能し続ける。

 ここでようやく『ココロコネクト』の話に戻る。伊織は、元気なキャラを演じるという業績を出し続ける限りにおいてのみ周囲は自分を好いてくれると考えている。ところが、感情伝導によってもはやそのキャラを演じることができなくなってしまった。したがって、それを演じ続け、業績を出し続けることを強いてくる周囲に伊織が「押しつけ」と感じるのは当然だろう。

 その一方で、元気なキャラを演じられなくなったことで伊織の自我は大きく動揺する。それは伊織の自己肯定感が業績的な根拠にのみ依存してきたからだ。伊織はネガティブな自己の本質を誰かが肯定してくれるとは考えていない。帰属に基づく自己肯定感を持つことができないのだ。

 伊織がそのような心理状況にある背景には、彼女が育った家庭環境に原因があると考えられる。「良い子」である限りにおいて承認されるという状況で育ったがゆえに、あるがままの自分では許されないという感覚が非常に強くあるのだろう。事実、物語中に登場する子ども時代の伊織は「ものすごく良い子」である。

伊織とアスカを隔てたもの

 ここで思い出されるのが、旧版の『新世紀エヴァンゲリオン』に登場するアスカというキャラクターだ。知っている人は多いだろうが、悲惨な家庭環境に育ちながらも、14歳にして大学を卒業し、多言語を駆使する天才肌の少女である。エヴァンゲリオンに搭乗することに非常なプライドを有しているが、やがてパイロットとしての才能において主人公シンジに見劣りすることが明らかになっていき、物語の終盤では精神を病んでしまう。伊織と同様、アスカも帰属に基づく自己肯定感を欠如させている。それをエヴァンゲリオンのパイロットとしての業績によって補っているのである。

 しかし、『エヴァンゲリオン』のアスカが心を病んでいくのに対し、『ココロコネクト』の伊織は最後には立ち直る。この両者を隔てたものは何か。

 自尊心をひどく傷つけられたアスカが同級生のヒカリという女の子の家に転がり込むシーンがある(23話)。「私の価値なんてなくなったの」と嘆くアスカに対して、ヒカリは「わたしはアスカがどうしたっていいと思うし、何も言わないわ。アスカはよくやったもの」と言う。それを聞いても、アスカはただ泣くばかりである。

 他方、『ココロコネクト』の文化同好会のメンバーは伊織との対決シーンにおいて、彼女に向かって「自分たちの過度な期待に応える必要などない」「てめえの人生だろうが、勝手に好きなように生きとけ」「永瀬(伊織)の理想の自分もそうじゃない部分も知ったうえで、今度は本当の永瀬に届けるために言う。俺はそれでも永瀬伊織のことが好きだぞ」というメッセージを伝える(16話)。

 『エヴァンゲリオン』でのヒカリの言葉はあくまで業績に基づく肯定(アスカはよくやった)の域を出ていない。だからこそアスカに救いは来なかった。他方、『ココロコネクト』のメッセージは文化研究部の人間関係が業績ではなく帰属に基づくこと、そして「あるがままの伊織」を自分たちが受け入れることを伊織に伝えるものだ。

 だからこそ伊織は、「暗いし冷めてるわたし」をも取り込むかたちで自己を再構築することができたのではないだろうか。ぼくとしては最後のセリフに「さっさと爆発しろ」という感想しか出てこないのだが。

 いまから20年近く前、『エヴァンゲリオン』を初めてテレビで見たときから、このシーンでヒカリがもっと違う、「あるがままのアスカ」を肯定するようなメッセージを伝えることができていたなら物語はもう少し違った展開を見せたのではないかと考えてきた。その意味で、伊織は救われたアスカなのかもしれないと思う。