擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

犯罪報道の二つの方向性

 多摩川沿いで中学生が殺害されるという痛ましい事件が起きた。

 事件の詳細についてはまだ部外者が何も語れる段階にはない。にもかかわらず、すでに少年法の改正を求める声が上がっている。容疑者が未成年である場合に氏名などの報道を禁じている規定の改正が必要だというのだ。

第61条 家庭裁判所の審判に付された少年又は少年のとき犯した罪により公訴を提起された者については、氏名、年齢、職業、住居、容ぼう等によりその者が当該事件の本人であることを推知することができるような記事又は写真を新聞紙その他の出版物に掲載してはならない。
(出典)少年法

自民党政調会長の:引用者)稲田氏は「少年が加害者である場合は名前を伏せ、通常の刑事裁判とは違う取り扱いを受ける」と指摘。その上で「(犯罪が)非常に凶悪化している。犯罪を予防する観点から今の少年法でよいのか、今後課題になるのではないか」と語った。
(出典)「自公政調会長、少年法改正に言及 川崎の殺害事件受け」(『朝日新聞』)

 1990年代後半以降、少年による凶悪事件が起きるたびに厳罰化の要求が繰り返されてきた。そして実際に、厳罰化はかなり進められてきている(参照)。今回の少年法の改正要求もこうした「厳罰化」の一環として位置づけられるだろう。

 なお、こういった事件が起きるたびに繰り返される「(少年)犯罪の凶悪化」であるが、統計的にはそういった事態は確認されていない。むしろ、以前よりも凶悪犯罪がずっと減っていることは多くの人びとによって指摘されるところである(参照)。

 それは措くとしても、今回の「厳罰化」要求は、罰を与えると想定される主体が政府ではなくマスメディアだということに特色がある。つまり、マスメディアには社会的制裁を与える力があると暗黙のうちに認めたうえで、その権力を拡大しろと言っていることになる。

 だが、犯罪報道に関して以前から言われているように、マスメディアは国民から何らかの信任を受けた存在ではない。民主主義社会にとって健全なマスメディアは不可欠な存在であるとしても、それとマスメディアが社会的制裁を行うべきか否かはまた別の次元の話になるだろう。しかも、言うまでもなく逮捕された段階では「容疑者」にすぎないわけで、その時点での社会的制裁は真っ当な権力行使とも言い難い。

 以上の点を踏まえて、今後の未成年による犯罪の報道に関しては、おおまかに言って全く異なる二つの方向性が考えられる。

 一つは、これまで以上に情報の公表を進める、言い換えればマスメディアの既存の権力を拡大するという方向性だ。18歳を成人年齢とするのであれば、18歳以上については容疑者の氏名の公表を許可する。この方向をもっと進めれば、年齢に関わらず原則的に加害者の氏名を公表するということにもなる。

 たとえば英国では、1993年に当時2歳の男の子を当時10歳の男の子2人が殺害するというジェームズ・バルガー事件が起きたさい、加害者の生い立ち、氏名、顔写真がすべて報道されている。それ以外の未成年による事件でも、氏名と顔写真は普通に報道されている。

 こうした方向性のメリットの一つは、デマの発生を抑制できるというものだろう。ネット上での私刑がまかり通る状況のなか、正確な情報を伝達すれば、少なくとも無関係の第三者が容疑者扱いされるという事態は回避しやすくなる。隠されているからこそ不正確な情報が蔓延するということは確かに否定できない。

 もう一つの方向性は、逆にこれまでよりも情報の公表を抑制し、マスメディアが社会的制裁を与える権力を制限するというものだ。

 20歳以下の容疑者や加害者に関する報道の抑制はもちろん、成人であっても裁判で有罪が確定するまでは容疑者の氏名の報道は控えるという話になるだろう。それによって未成年の加害者や裁判で無罪となった人びとの社会復帰の促進を目指す。ネットの普及によって過去の犯罪歴がいつまでも記録され続ける状況を考えると、こちらの方向性にも合理性は認められる。

 「前科者の社会復帰など不要だ」という主張も散見されるが、彼らの社会復帰が困難になるほど、再犯の可能性が高まり、新たな被害者が生まれることにもなりかねない。犯罪者を全員死刑あるいは仮釈放なしの終身刑に処するといった極端な方策でも取らない限り、社会復帰はどうしても必要になる。

 たとえば、上で紹介したバルガー事件では、加害者の少年たちが釈放されたさい、英国政府は彼らに新しい氏名を与え、マスメディアにはそれを報じることを禁止している。彼らの社会復帰に費やされた公費は膨大な額に上るという。最初から氏名や顔写真を報道していなければ、そういった公費を節約できた可能性は高いだろう。

 また、容疑者に関する情報公開を進めるべきだという主張の論拠の一つは、被害者の情報ばかりが報道されるのは不公平だというものだ。実際、犯罪被害者に関する報道はしばしば加熱し、場合によっては被害者やその遺族へのバッシングすら生じてしまう。それを踏まえるなら、容疑者または加害者に関する報道のみならず、被害者に関する報道も抑制すべきだということにもなる。

 つまり、こちらの方向性を突き詰めていくと、人びとが被害者や加害者の氏名を知ることに公益性はないのだから、犯罪に関する実名報道全般を止めるべきだという話になっていく。

 しかし、こちらの方向性を追求した場合、問題となるのは真偽不明な情報が蔓延しやすくなることだ。正確な情報が隠されているほど、それに対する欲求は強まる。したがって、こちらを目指すのであれば、真偽不明な情報の流通に加担しないというネットユーザーの意識の向上が、前者の方向性以上に重要になる。

 以上のようにこのエントリでは相反する二つの方向性について考えてきた。以前には、世の大勢はつねに前者の方向性を支持しているとぼくは思っていた。情報の欠乏に対する根強い不満がある以上、人びとはどんな時であれ情報の更なる開示を求めると考えていたからだ。しかし、以前のエントリでも述べたように、マスメディアが「不要な情報」を流すことに対する不満が強まっている(ように見える)現在では、少し風向きが変わってきているのかとも思う。

 なお、ここでは大雑把に方向性を二つに切り分けたが、実際にはもっと多様な組み合わせが想定できる。被害者や容疑段階での加害者に関する報道を制限する一方で、有罪が確定した加害者については年齢を問わず更なる情報公開を目指すといった方向性などが考えられよう。

 いずれにせよ必要なのは、マスメディアによる社会的制裁の是非といった従来の論点に加えて、それを行使する主体があやふやなネットという暴走しがちな新しい「権力」との関係性のなかでマスメディアの役割について考えていくことではないだろうか。