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擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

「人生の目的」は語らないほうがいい

 いまからちょうど20年前、ぼくが大学2年生だったころの話だ。

 やっと大学に入学できたという高揚感はとうの昔に冷め、ぼくはいかにも若者らしい悩みを抱えていた。「自分が生きている意味がわからない」というやつだ。

 周囲を見渡すと、ぼくよりも何かに秀でている連中ばかりに思えた。ぼくには何の特技もなく、特に秀でているところもない。それどころか、友人関係すらもうまく営むことができず、どこか浮いた存在になってしまっていた。一人暮らしをしていた自宅に少しの間だがひきこもり、「生きている価値あんのかな…」と悩んでいた時期もある。

 いろいろあって、その悩みは大学3年生になると和らぐのだが、それでも時折、自己懐疑は襲ってきた。「自分のやっている学問に意味はあるのか」「何の役にも立たない、誰かを喜ばせるわけでもない研究を続けてもよいのか」存在価値のあやふやな文系の学問をずっと続けていると、そういう思いに取り憑かれる人は少なくないのではないかと思う。大学に職を得た今ですら、これからのデジタルメディアの時代にぼくのような古色蒼然としたメディア研究など不要ではないかと考えたりもする。

 その一方で、歳をとっていろいろな責任を背負うようになると、自分の存在価値についてあまり悩まなくなることも確かだ。特に子どもが出来るとそうなる。もし自分がいなくなってしまったら、目の前の子どもたちを確実に困らせることになるからだ。やはり成人するまでは自分の責任で育てないと、という気持ちになる。生きている意味について深く考えることの必要性は乏しい。

 しかし、もしかするとこれは、子どもたちに願望を転嫁しているだけなのかもしれない。自分が見つけることが出来なかった人生の意味を、子どもたちはもしかしたら見つけることができるかもしれない。そこに期待をかけることで、自分の生きる意味を問うことをペンディングしているだけではないか。ドラクエ5風に言えば、自分自身が勇者であることを諦め、勇者の父でありたいと望んでいると言えるかもしれない。

 とはいえ、この歳になってみて、漠然とはしているものの、子ども以外にも自分が生きている意味のようなものはあるような気もしている。ただ、それをここに書くことはしない。

 おそらく、人生の目的のようなプライベートな思いは、言葉にしないほうがいい。言葉にしてしまうと、それが音声であれ、書いたものであれ、他人がコピーできるものになるからだ。そうなると唯一無二の思いであったはずのものが急に安っぽくなってしまう。たとえば、本当に誰かを愛し、その人のために生きると決意していたとしても、それを言葉にしてしまうと、どこにでもある、誰もが語ることのできる複製可能な感情になってしまう。

 だから、「人生の目的」は誰にも語らないほうがいい。それは心の奥底にしまわれていることで、力を与えてくれるのではないかと思う。