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擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

アジールとしての学校

雑想

 若い人たちによく見られているアニメ作品には「アジール」が登場することが多い。

 アジールというのは、外部から隔絶されていて、そのなかでは外部とは別の秩序が成立している空間のことを指す。アニメ作品における典型的なアジールは部室だ。たとえば、『涼宮ハルヒの憂鬱』のSOS団、『けいおん!』の軽音部、『氷菓』の古典部、『ココロコネクト』の文研部などの部室がそれにあたる。

 たまに部活の顧問が入ってくる程度で、基本的に部室には学生しかいない。だから、外部社会のさまざまな常識が遮断され、独特のルールがそこを支配する。『涼宮…』がもっとも典型的で、外部では成立しようのない涼宮ハルヒの絶対権力によって部室は統治される。

 若い人向けの作品にこうしたアジールが登場する理由はよくわかる。精神的には親から自立しつつも、社会的、経済的にはまだまだ親の庇護のもとにある年齢層の若者が、かりそめの自立を体験する場としてそのようなアジールはうってつけだからだ。

 自宅だと親の存在がどうしても意識されてしまう。かといって一人暮らしの部屋では人(特に異性)が集まるという設定にしづらい。ファミレスや喫茶店では、客である限り私物を置くなどして空間に手を加えることができない。これらの要因から、学校の部室というのはアジールの設定として最適の場所なのである。

 もちろん、アニメに登場するアジールは部室とは限らない。部室以外のアジールとしては『STEINS;GATE』の「未来ガジェット研究所」がそうだし、『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない』の秘密基地などが思い浮かぶ。

 だが、それらのアジールにはどこか設定として無理がある。『STEINS…』の場合、バイトもろくにしていないさそうな大学一年生が秋葉原の雑居ビルの家賃を支払い続けるというのはリアリティに乏しい。『あの日…』の場合、秘密基地の電気代はいったい誰が払っているのかという疑問が浮かぶ。学校の外にアジールを設定しようとすると、なんとなく設定にぎこちなさが生まれるのだ。

 その意味では、アニメ作品というフィクションでも、そして現実においても若者たちのアジールとして最適な場は学校である。じっさい、ぼく自身の経験を振り返ってみても、学生時代のアジールは学校だった。

 大学1、2年生のときにはサークルで使っていた音楽練習室(音練)がそうだった。授業の合間に音練を覗くと、たいてい何人かがたむろしていて、だらだらと雑談をしたり、どこかに遊びに行ったりする。ぼくが通っていた大学は3年生以降になると別キャンパスになるので、上級生があまりいないのも嬉しかった。なので、大学3年生になって都心のキャンパスに移ってからは、大学に急に居場所がなくなったような、そんな感覚をたびたび覚えた。

 大学院生になってからは、共同研究スベースにある談話室がアジールだった。研究に疲れると、友人を誘って談話室で延々と雑談を交わす。本当にどうでも良い話のこともあれば、学術的な話や政治的な話題になることもある。歴史認識問題をめぐって4、5時間ぐらい議論をしていたこともある。

 読み慣れない英語の論文や、何を言っているのかさっぱり分からない日本語文献に四苦八苦させられてはいたが、いまでも大学院生時代の談話室での時間は本当に楽しかったと思える。そういえば、ペプシコーラとコカコーラを味だけで区別することは可能かというブラインドテストをやったのもあの談話室だった。

 このように、少なからぬ学生にとって学校のなかの「隙間」はアジールとして機能してきたのではないかと思う。だが、視点を変えて学校を運営する側から見ると、こうしたアジールは紛れもないリスク要因だ。なにせ外部からの視線が入らないので、不祥事の温床になりかねないのだ。

 過激な政治運動の拠点になったり、火気使用、飲酒、性行為等、学校という場では好ましくない行為が行われる可能性がどうしても出てくる。『涼宮ハルヒ…』では部室内で鍋をやるシーンが出てくるが、ぼくが通っていた高校で、部室で鍋をやったことが発覚したある部は部室の使用が禁止された。

 しかも、最近では大学の都心回帰が続いており、部活やサークルに独立した空間を与えることが難しくなっている。地価の高い都心の、高層ビルのようなキャンパスでは学生のための隙間的な場所をなかなか用意できないのだ(1)。

 こうした学校側の観点からすれば、授業には積極的に出席してもらい、授業が終われば図書館に行くか帰宅するかして、学生にあまりキャンパス内に意味なくたむろしてほしくないというのが正直なところではないだろうか。私物を持ち込むことなく、空間に手を加えるなどもってのほかで、学校に滞留もせず後腐れなく卒業していってほしいという感覚かもしれない。

 加えて、アジールの引力というのはなかなかに強力で、いったん中に入ると外に出るのが面倒くさくなるという性質を持っている。このようなアジールに魂を引かれた者たちは、ずっと学校にいるのになぜか授業には出ないということになりがちだ。学生の学力を何が何でも向上させるという目的からすれば、そのようなアジールなど無用の長物ということになるだろう。

 けれども、アニメ作品で部室のようなアジールが幾度となく描かれ続けるのを見ると、学校に何らかの居場所を求めるニーズの存在は否定できないだろう。ぼくの勤務先のキャンパスには音楽系サークルの溜まり場となっている薄暗い場所がある。学校内に人影がまばらな時間帯であっても、学生の姿を見る可能性がもっとも高いのはそこなのだ。

 そこにたむろしている学生の留年率はかなり高いと聞くし、キャンパスの管理という面ではいろいろと問題がありそうな雰囲気もある。「グローバル人材育成」とか最近の教育トレンドからは全く無縁に見える場所だ。

 しかし、教員としてこういうことを書くのはどうかと思うが、彼らがあそこで過ごす一見すると無為な時間を否定したくはない。後になって振り返ったときに、社会や経済の論理からは切り離されたアジールで過ごした時間は、それなりに貴重なものになるという気もするからだ。たとえそれが、まったく生産性のない時間であったとしても。

 なので、高度に管理された無機的な都市型キャンパスの大学ばかりが増えていくのにはやはり寂しさを覚える。学問だけではなくアジールもまた提供する。それが大学のあるべき姿ではないかとも思うからだ。

 もちろん、アジールと言えど、学校内で不祥事を起こされるのも困るので、学生諸君にはそれなりに自制心を持ってだらだらしてほしいわけだが。

脚注

(1)大学サークルの部室を舞台にしたアニメ作品としては『げんしけん』が思い浮かぶが、この作品の原作者の出身は筑波大学、アニメのロケハンが行われたのは中央大学の多摩キャンパスである。いずれも広大なキャンパスを誇る大学だというのはおそらく偶然ではないだろう。