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擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

批判の流儀

社会 コミュニケーション

 先日、都議会での野次問題に関連して、注目を集めたエントリがある。どこかの大学の教員が授業の枕として話した内容の概要だという。

思慮深いみなさんの事ですから間違える事は無いと思いますが、念のために助言しておきます。

この件でネット上で当事者を批判するのはおやめなさい。

赤の他人の失言をあげつらって公然と批判するというのは、実は非常に難しい事なのです。私よりも年齢を重ねた人でさえも、きちんと出来ない人は少なくありません。その割に、得るものはあまり多くありません。

批判自体は簡単です。ただし、自身の品位や人間性を損なわずに批判するというのは、これは極めて高度な技術に加えて、強い精神力も求められるのです。

(出典)http://anond.hatelabo.jp/20140624211919

 実際のところ、これが本当に大学教員の話した内容なのかどうかは分からない。けれども、ぼくとしては非常に頷けるところの多い文章だ。

 この文章に付いたコメントを見ると評価は分かれていて、「批判を封じ込めようとしている」「この教員は学会でも批判を控えることで年長者に媚びてきたのか」(大意)といったコメントも目立つ。

 だが、ぼくはこの教員は「絶対に批判をするな」と言っているわけではないと思う。そうではなく、批判をするなら適切なやり方が求められるのであって、それにはかなりの精神力が必要だというのが話のポイントではなかろうか。

 もちろん、これはぼくの解釈に過ぎないし、この教員が本当に何を言いたかったのか(あるいは実在するのか)もわからない。ただ、それでも適切な批判にはある種の精神力が必要だし、それはわりとしんどい作業なのではないかと思う。

 そこでここでは、都議会の問題からは少し逸れるが、適切な批判をすることがなぜ難しいのかを考えてみたい。

 他者の発言に対する批判が中傷へと転化しやすいのは、「何を言っているか」ではなく「誰が言っているか」が問題にされるときだ。それは、発言者の属性にフォーカスすることで、発言者から主体性を奪ってしまうからだ。

 たとえば、ある男性の発言に対して「あなたは男だからそんなことを言うのだ」というリアクションが返ってきた場合、その男性がどれだけ一生懸命に絞り出した言葉であっても、「男」という属性のゆえにそのような言葉を発したのだとされてしまう。その男性は主体性を持たない、「男」という属性の奴隷だと見なされてしまうのだ(人文社会科学の分析概念がこうした働きをすることは以前のエントリで論じた)。

 あるいは、「そんなことを言う前に、女なんだから子どもを産め」というのも、発言者の主体性を奪おうとする主張だと言える。ある発言を行うためには母であることが必要だという前提を置くことで、自己の属性に関係なく発言者が主体的に思考し、発言する自由を制限してしまうからだ。

 もちろん、これらは「男/女」に限った話ではなく、「金持ち」「日本人」「外国人」「自民党」「サヨク」「ネトウヨ」といった様々な属性(またはレッテル)に該当する。

 というわけで、批判をするときにはあくまで相手の属性ではなく、発言の内容のみを問題とすべきだ……というのが妥当な落とし所になるわけだが、残念なことにそれだけでは問題は解決しない。ここが悩ましいのだ。

 というのも、何らかの属性をもとに発言するという行為は必ずしも否定されるべきではないからだ。ある属性からでないと見えない風景というのは確かにある。たとえば、日本社会の内側にいるとなかなか気づけない問題や着眼点を外国人から指摘されて初めて認識するということはあるのではないかと思う。あるいは、エスニック・マイノリティやセクシャル・マイノリティという属性を有する人たちの発言が、マジョリティからは見えづらい問題を浮かび上がらせてくれることもある。

 もう少し言えば、社会学という学問が発展するにあたって、ユダヤ人が果たしてきた役割は大きい。その理由の一つは、社会の周辺に追いやられがちなユダヤ人だからこそ、社会がどのような仕組みで動いているのかがはっきり見えたということがあるのではないだろうか。空気が足りなくなって初めて空気の存在を意識するのと同じように、社会の仕組みというのはそれにどっぷり漬かっている人からはかえって見えづらい(1)。

 話が逸れた。

 とにかく、自己の属性を前面に出した発言は必ずしも否定されるべきではない。ところが、属性を過度に強調した発言をされると、その属性を攻撃したいという衝動が生まれることがある。

 たとえば、由緒ある家柄を売りにして議論を展開する人がいたとしよう。そういう人の発言を批判するさい「お前みたいなボンボンに何が分かる」と言いたくなるのは仕方のない部分もある。

 しかし、たとえ属性を前面に出した発言をする人に対してであっても、理性的な議論を成立させようとすれば、属性に対する攻撃は控えなくてはならない。あくまで発言の内容を問題にしなくてはならないのだ。

 そして、それには結構なフラストレーションがたまる。なんとなく不公平な気がするからだ。家柄を自慢する人なのに、家柄にまつわる反論をしてはいけない…。女性であることを最大限に活用してきた人に見えるのに、女性という属性に絡めた批判をしてはいけない…。だが、属性に関わる批判を慎まない限り、待っているのは果てしない人格攻撃の応報である。

 適切な批判をすることが難しい理由の一つは、おそらくここにある。相手の発言を批判しているはずが、気がつけば属性に対する攻撃になっている。発言の内容をきちんと検討する前に、相手の属性から安易なプロファイリングを始めてしまう。理性的な討論からはどんどん遠ざかり、党派性むき出しの中傷や人格攻撃へと帰結する。

 都議会の野次に関して言えば、野次の内容やそれを発した人物の特定を防ごうとする行動は批判されるべきであっても、よほどの関連性が見出されない限り過去の経歴や所属政党を殊更にあげつらうのは好ましくない。冷静な議論をかえって阻害してしまう。

 適切な批判を行うのに精神力が必要なのは、属性に対する攻撃の誘惑に耐えねばならないからだ。そしてそれは、議論を生業とするはずの研究者にとっても、決して容易なことではない。

脚注

(1) したがって、「社会学者のくせに社会性がない」という批判は間違っている。社会性がないからこそ社会学者になったのであり、社会の仕組みがむしろよく見えるからだ!……いやいやいや、もちろん社会学者一般に社会性がないというわけではないし、社会性があると良い社会学者になれないというわけではないですよ、誤解なきよう。このあたりの議論は、奥村隆ほか『社会学になにができるか』(八千代出版)を参照されたい。