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擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

「政治的なもの」を飼い慣らす(1)

社会

 先日、ネットで舞の海秀平氏の「排外」発言が話題になったことがあった。発端になったのは『週刊金曜日』のこの報道。舞の海氏の発言として、以下のように伝えている。

「外国人力士が強くなり過ぎ、相撲を見なくなる人が多くなった。NHK解説では言えないが、蒙古襲来だ。外国人力士を排除したらいいと言う人がいる」
(出典)週刊金曜日ニュース» ブログアーカイブ » “昭和天皇万歳”集会で――舞の海氏が排外発言

 しかし、後になってこの報道が悪質な「切り取り」であることが判明する。このサイトで文字起こしが行われているが、それによると上の発言は舞の海氏が持論を展開するための枕詞に過ぎず、氏の本来の主張は次のようなものだった。

でも見方を変えますとね,今大相撲を支えているのは,実はモンゴル人なんですね。モンゴル人がいるからこそ,私達は横綱の土俵入りが見れるんですね。
(出典)nix in desertis:舞の海講演会について(文字起こし有)

 この問題に関してはすでに多くの批判が行われていて、いまさら付け加えることは特に無い。ただ、なぜ『週刊金曜日』の歪曲的な記事が出てきたのかを考えてみると、一つには舞の海氏がもともと保守的な政治的立場の人物だということがあるのかもしれない。(たとえば、このサイトを参照)

 つまり、『週刊金曜日』の記事を書いた人物は、舞の海氏の政治的立場を知っており、「いかにも排外主義的な発言をしそうだ」という先入観を持っていた。そのことがもともとの発言を曲解し、ああいった記事を書かせることになった…ということだ。もちろん、仮にそうだったとしても、それは何の言い訳にもならない。

 ところで、上で「政治的立場」と書いたが、そもそも「政治」とはいったい何だろうか。政治の定義をめぐっては政治学者のなかでも様々に見解が分かれる。なかでもよく知られているのは、カール・シュミットの「政治的なもの」に関する主張だ。(カール・シュミット、田中浩ほか訳『政治的なものの概念』未来社、1970年)

 シュミットは、政治なものに固有な要素とは友と敵をつくることだと断じた。道徳的な区別が善/悪、美的な区別が美/醜に基づくように、政治は誰が友で誰が敵かという区別を行う。その働きがもっとも見えやすくなるのが戦争で、国家の主権者は誰が友で誰が敵かを決める究極の権限を持つ。

 シュミット自身はおもに国家間の次元で友と敵の区別を見ていたように思うが、言うまでもなく政治的な対立は国家間でのみ発生するわけではない。さまざまな場面で友と敵の認定がなされ、論戦が激しく戦わされることもあれば、暴力に発展することもある。前回のエントリで述べた「相手を潰すためのコミュニケーション」は、説得の段階からミニ政治の段階へと移行することで生じると言えるかもしれない。

 だが、こうした「政治的なもの」には様々な代償が伴う。「政治的なもの」が生み出す最初の犠牲は、おそらくそこに参加する人びとの認知のバランスだ。「友」の言動には甘くなる一方、「敵」の言動にはどうしても辛辣になる。さらに言えば、「敵」の言論そのものに触れるのが嫌になる。

 マスコミュニケーションの効果研究でよく知られた概念に「選択的接触/知覚/記憶」というものがある。要するに、人は自分にとって都合のよい情報や言論には積極的に接触するし、よく気づくし、後々まで覚えていることが多い。他方で、都合の悪い情報や言論にはあまり接触せず、無視することが多く、忘れてしまいがちだ。

 ここで個人的な話をすると、ぼくは大学に入学するまで『産経新聞』を読んでいた。実家が同紙を取っていたからだ。読んでいて違和感を抱くこともそれほどなかった。大学に入学した当初も『産経』を取るつもりでいたが、別の新聞の勧誘が先に来たこともあり、結局は半年ごとに『朝日』と『読売』を交互に取るようになった(おかげで大学在学中、ぼくは洗剤を一度も買わなかったし、たまに人にあげていた)。

 それから1年ほどが経ち、実家に帰ったときにたまたま『産経』を読んで驚いた。不快すぎて本当に読みづらいのだ。実家を離れているあいだにぼくのなかで「政治的なもの」が明確なかたちを取り始めたために、それと対抗する言論に接することが辛くなっていたのだろう。

 自分とは異なるスタンスの言論に接することはどうしてもフラストレーションの要因になる。だからこそ、自分にとって心地よい言論ばかりに接する誘惑が生まれる。まさに選択的接触だ。他方で、対抗言論に接したとしても、あらを探すような読み方になりがちになる。『週刊金曜日』に件の記事を書いた記者も、「政治的なもの」の誘惑に負けてしまったのではないだろうか。

 それでは、どうすればこの厄介な「政治的なもの」を飼い慣らすことができるのだろうか。なんだか予想外に長くなってしまったので、続きは次回ということにしたい。