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擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

マイルドヤンキーの近代化

学問 社会

 1950年代から60年代にかけて、米国の社会科学では近代化論なるものが隆盛を誇っていた。

 当時、植民地支配から次々と独立を遂げていった国々をいかにすれば欧米のような近代国家へと成長させることができるのかが近代化論のテーマだった。もちろん、その背後には、生まれたての開発途上国ソ連の影響下に入ることを阻止するという問題意識が控えていたわけだが。

 近代化論の影響は経済学、政治学、社会学に及んだが、マスコミュニケーション研究もその例外ではなかった。コミュニケーション発展論(communication and development)と呼ばれる研究の系譜がそれにあたる。マスメディアを使って途上国の近代化をいかに促進することができるかを研究していたわけだ。

 それでは、どうやればマスメディアは近代化に貢献できるのか。

 コミュニケーション発展論の研究者たちは途上国の人たちのことをこんな風に見ていた。途上国の人たちの多くは運命論(fatalism)に支配されている。運命論というのは、要するに自分の人生なんて生まれた時から決まっていて、どう頑張っても変えようがないという発想だ。だから、無理をして自分の人生を変えようとは思わない。

 そもそも、彼らの多くは自分たちのことを貧しいとも思っていない。先進国の人間から見れば、いくら貧しく不便な生活を送っていようとも、途上国の人たちはその生活に満足してしまっている。だから、それを変えようという意欲も湧いてこない。

 もう一つ言えば、彼らは自分たちの周囲のことにしか関心がない。遠くの世界で何が起きているのかにも目を向けない。だから、自分たちの生活を遠くの人たちと比較して、その貧しさに気づくというきっかけがない。

 なんとも酷い言い草だが、とにかくコミュニケーション発展論はこうした人びとをどうすれば近代化に向けて動機づけることができるのかを考えていたわけだ。

 さて、長い前置きになったが、これととてもよく似た主張をさいきん見かけるようになった。いわゆる「マイルドヤンキー」の話だ。それによると、マイルドヤンキーというのは次のような人たちのことを指すらしい。

・内向的で、上昇指向が低い(非常に保守的)
・小中学時代からの友人たちと「永遠に続く日常」を夢見る
(出典)マイルドヤンキー賞賛とその先にあるもの、、、/以下に同じ。

→自分の人生を無理して変えようと思わない(運命論の支配)

・近くにあって、なんでも揃うイオンSCは夢の国

→都市民からすれば画一的で退屈なショッピングセンターで満足してしまっている。

・生まれ育った地元指向が非常に強い(パラサイト率も高い)
・遠出を嫌い、生活も遊びも地元で済ませたい

→自分たちの周囲にしか関心がなく、遠い世界のことに目を向けない

 というわけで、マイルドヤンキー論というのは、その対象が開発途上国の人たちから郊外に暮らす人たちに変わっただけの、50年遅れでやってきたコミュニケーション発展論である。

 それでは、コミュニケーション発展論の研究者たちは、どうすれば途上国の人たちのマインドを変えることができると考えたのか。

 それは、マスメディアを普及させることで「比較」をさせるということだ。マスメディアを経由して伝えられる一般の米国人の豊かで便利な生活。それを見た途上国の人たちは自分たちの生活が実は貧しく、不便なものであることに気づく。そうして、自分たちも豊かな生活がしたい!ということで、近代化へのモチベーションが生まれる…という流れだ。研究者たちはこれを「期待増大革命」と呼んだ。

 実際、日本に限ってみれば、こういうメカニズムは確かに働いたのかもしれない。高度経済成長期、番組制作のリソースを不足させていた日本のテレビ局は安価な米国製のテレビ番組を輸入し、それを盛んに放送した。『パパは何でも知っている』や『アイラブルルーシー』といったテレビドラマに映し出される米国の豊かな家庭生活は、高度成長の原動力を生んだとも指摘される。

 ただし、コミュニケーション発展論の研究者たちは、マスメディアを通じて期待が高まったとしても、経済成長がそれに追いつかなければむしろ危険が高まるとも指摘していた。豊かな生活をしたいという願望と実際の生活とのギャップが開くほどに政治や社会への不満が高まり、暴発する可能性が生まれるというのだ。

 これを逆に言うと、経済成長が難しく、今よりも豊かな生活ができないのであれば、高い願望を持たないほうが合理的だということになる。実際に豊かになる可能性は乏しいのに願望だけを高めたとしても不幸になるだけの話だ。

 そう考えるなら、上で紹介したマイルドヤンキーという人たちが、仮に本当にいるとすれば、むしろ合理的な存在なのではないかとも思う(どうにもステレオタイプ的な表現なので、個人的には好きな言葉ではないのだが)。地方経済が閉塞するなかで、現代のコミュニケーション発展論者に従って運命論を克服し、広い世界に目を向けたところで願望と現実とのギャップがただ拡がるだけだ。

 結局のところ、マイルドヤンキーなる人たちが何かの意味で問題であったとしても、それを問題視するというのは本末転倒ではないかという気がする。問題の根源は別のところにあると言ったほうが良い。

 むしろ、この概念で炙りだされるのは、郊外に暮らす人たちというよりも、「郊外に暮らす人びとはわれわれに目を向けていてほしい」という都市住民の願望なのではないだろうか。