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擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

フエルテベントゥラ紀行(3)

雑想

フエルテベントゥラ紀行(1)
フエルテベントゥラ紀行(2)

 誰も読んでいないんじゃないかというこの紀行文、なんと前回のエントリにスターが付いた。少なくとも一人は読者がいるわけだ。なので、たとえ読者が少なくともとにかく完結させねばなるまい。

 さて前回書いたとおり、周囲の圧倒的多数が白人という超アウェイな環境のなか、フエルテベントゥラ島でまったりとする我が家。

 しかし、さすがにずっとホテルにいるのもつまらない。なので、フエルテベントゥラ島にある動物園にも出かけることにした。オアシスパークという動物園なのだが、Google先生に訊いてみると、日本語サイトでこの施設に関する情報は存在しないようだ。無論、それはニーズがないということとほぼ同義なのだが、ともあれ我が家はこの動物園に行ったのである。さあ読者諸君、君たちはこれからおそらく日本語で唯一のオアシスパークに関する記述を目にするのだ!!

 ……さて、このオアシスパークの最大の売りはなにか。それはラクダに乗れることである。逆に言えば、ラクダに乗らないのであれば、無理をしてこの動物園に行く必要はないかもしれない。

 ラクダというのは本当に力持ちで、我が家四人全員が一頭のラクダによって運搬された。正確な合計体重を書くといろいろと差し障りがありそうなので伏せるが、少なくとも150kgを超えていたことは確実である。全所要時間は30分ぐらいだろうか。ラクダの背中に揺られながら、見晴しの良い丘を登る。かなり揺れるが、酔うような揺れ方ではないので、風景を十分に楽しむことができる。

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 ラクダから降りると、今度は園内を散策。隣で娘が「あたし、動物園あんまり好きじゃないんだよねー」などとガッカリ発言をするのを聞きながら、それでも動物のショーを見てまわる。インコ、爬虫類、タカ、アシカなどのショーが楽しめる。

 これらのなかではタカのショーだけがかなり離れた高台で行われる。園内バスで移動すると、さきほど爬虫類ショーで楽しげにヘビやワニと戯れていたお姉さんが、今度はタカのショーにも登場し、いろいろと芸を披露していた。なんとなく人件費節減を思わせる悲しい瞬間である。

 タカのショーが終わったあとは、園内のレストランに入った。すると、さきほどのショーに連続して出場していたお姉さんが一人、浮かない顔で食事をしているではないか。きっとこのレストランの料理にも飽き飽きなのだろうが、園の近くに食事をできそうな施設はない。

 「あのお姉さん、この島の出身かな」とぼく。
 「そうとも限らないんじゃない。動物の仕事がしたくて島の外から来たのかも」と奥さん。
 「たしかに、動物関係の仕事とか少なそうだもんね。でも、ずっとこの島で仕事を続けるのかな。一生続けるにはしんどそうな仕事じゃない?」などと、お姉さんの今後の人生を勝手に心配し始めるわれわれであった。余計なお世話であることは承知している。
 
 こうして、オアシスパークのすべてのショーを見終えたわれわれは、バスでホテルへと戻る。さすがに帰路ではみな疲れたのか、奥さんや子どもたちは寝てしまい、ぼくは窓の外を眺めていた。人が住んでいるところやオアシスパークの周辺は無理やり緑化されているが、基本的にはほぼ砂漠の島である。草木もわずかな荒野が広がり、そのなかに遥か以前に放棄されたような廃墟があるのを見ると、何とも言えない哀愁を感じるのだった。

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 バスでの帰路もそうだったが、子連れ旅行において親が自分の時間を過ごせるのは、基本的に子どもが寝ている間だけである。我が家の場合、奥さんにも長時間睡眠が必要になるため、深夜あるいは早朝は一人で過ごすことができる。

 朝、まだ子どもたちや奥さんが寝ているあいだに起床したぼくは、ホテルの部屋の隅っこのほうでiPadでダウンロードした書籍を読んでいた。せっかくの旅行なので、学術書ばかりを読むのも疲れる。そこで、今回の旅行では、樋口直哉『大人ドロップ』と柴崎友香『私がいなかった街で』を読むことにした。

 『大人ドロップ』は高校生の人間関係や恋愛模様を描いた作品で、さいきんになって映画化されている。40歳を過ぎたオッサンが高校生の恋愛ものを読むというのはいかがなものかとも思うのだが、それはそれで楽しめた。読後感は悪くないが、まあなんというか「リア充爆発しろ」という感じだろうか。

 『私がいなかった街で』は、離婚したばかりの女性を主人公とする作品。正直、最初のほうはなかなかページが進まなかったのだが、途中からは小説としての力を感じさせる作品だった。ぼくが思うに、この小説は実にメディア的だと思う。

 作中における主人公の行動範囲はきわめて限定的だ。途中で大阪に帰省するシーンはあれども、基本的には現在の居住地である東京の自宅と職場を往復するだけだ。にもかかわらず、主人公の意識は時間と空間を越えて遠い外国の戦場や、あるいは祖父がかつて過ごした原爆投下直前の広島、あるいは主人公に代わって友人が体験する大阪での出来事へと向かう。時間的、空間的に隔たった場所と主人公とをつなぐのは「メディア」だ。ニュース映像やSNS、あるいは友人といったメディアを介して「私がいなかった街」を主人公はさまよう。

わたしが今まで見てきた、すべての映像に、撮影した人も放送した人もいる。わたしはきっと、彼らの目を通して、現実の世界を見ている。画像だけじゃなくて、小説でも映画でも、誰かが見た世界を通じて、この世界のことを見る。
(出典)柴崎友香『私がいなかった街で』新潮社。

 ただし、それはあくまでメディアを介して、の話だ。実際に他者の視点を完全に自分のものにできるわけではない。そのような思い込みは独善を生む。他者はどこまでいっても他者だということを忘れてはならない。しかし、だからと言って他者はしょせん他人だと切り捨てる必要もない。人は他者を完全に知ることも、受け入れることもできないが、それでも近づくことはできる。

 わたしはこのおばあちゃんみたいな気持ちも、一生経験することがない。わたしのこれからの時間に、そんなに深い感動は訪れはしない。なぜそう断定してしまうのか自分でもわからないけど、そう思って、でもそれはむなしいことともかなしいこととも感じなかった。
 ずっとわからないかもしれないけど、それでも、わたしは、自分が今生きている世界のどこかに死ぬほど美しい瞬間や、長い人生の経験をかみしめて生きている人がいることを、少しでも知ることができるし、いつか、もしかしたら、そういう瞬間に辿り着くことがあるかもしれないと、思い続けることができる。なくてもいいから、絶対に、そう思い続けたい。
(出典)柴崎友香、前掲書。

 他者との完全なる相互理解の可能性を否定しながらも、その可能性を信じる。こうした意味でこの小説は、他者との安直な一体化と、他者へのシニシズムの両方を拒絶するというきわめて現代的なテーマを扱っていると言うことができる。

 ところで、この小説の作者である柴崎友香さんは、ぼくと同じ大阪の市岡高校の出身で、なおかつ同期生である。残念ながら柴崎さんと面識はないものの、作中で高校時代の大阪の描写が出てきたときには苦笑を禁じ得なかった。柴崎さんの小説を読むのは今回が初めてだったが、なかなかに楽しめたので、今後も折に触れて読んでいきたいと思う。
 
 さて、途中から紀行文なのか読書感想文なのか分からなくなってしまったが、とりあえずフエルテベントゥラ紀行はこれでおしまいである。砂浜でバベルの塔もどきを作った話とか、ホテルのアジア料理店で酷い目に遭った話も書こうかと思ったが、まあもういいだろう。

 ただ、最後に一つ教訓を述べておくと、海外でアジア料理店に入るときには、できるだけ特定の国の料理に特化した店に入るべきだ。経験的に言って、日本料理、中国料理、タイ料理など「アジア」であれば何でもメニューに載せている店は要注意である。そういう店で間違えても寿司を頼んだりしてはいけないと思う。まあ、日本料理と銘打っていても、酷い店は酷いのだが。